■桜井章一の「ぶれない生き方」 -PHP研究所-
ものごとを正しく評価し、あるがままに見ることは至難の技です。良否の見極めの原点は、疑うことにあるのです
そのため(言いなりにならない)には、
ものごとをよく見ることです。
「信じる」という言葉がありますが、
私に言わせればその逆で、
信じないほうがいい。
「疑うこと」、換言すれば、
「確認すること」からものごとは始まるということです。
信じ難いために、疑う、
つまり確認するのです。
by. 桜井章一氏
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ものごとを正しく評価し、
あるがままに見ることは至難の技です。
私は、疑うことを養ってきました。
良否の見極めの原点は、
疑うことにあるのです。
人を信じたいから、
自分の心で納得したいから、
人を愛したいから、
石橋を叩くのです。
by. 桜井章一氏
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普通の人は、石橋を叩いて結局渡らない。
叩き過ぎて、叩き割ってしまう人もいます。
しかし人は、石橋を渡りたいために、
石橋を叩くのです。
渡るという目標を持っています。
それと同じで、人を信じたいけれど、
信じがたいがために、
まず疑うところから入るのです。
by. 桜井章一氏
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疑って、ちゃんと見る。
石橋を叩くのは自分です。
信じるということ、
愛するということも、
全部自分で叩いてみて判断を下す。
あるがままのものを見る力を培うことで、
どんなときにでも、
自分で叩いたうえで、
先に進むための行動を起こすようになれるのです。
疑って、ものごとをちゃんと見ることが、
言いなりにならないことに通じますが、
「叩く」ということを、
さらに換言すれば、
自分なりに感じるということに通じます。
by. 桜井章一氏
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石橋でもなんでも、
叩けば響きになって返ってきます。
響きぐあいで渡れるか否かが判断できるし、
ヒビが入っているかも掴めるのです。
心と身体のすべてで感じなければなりません。
ものごとすべてにそういう考え方で臨むことで、
疑う力、すなわち、見極める力、
見通す力が身についていくのです。
by. 桜井章一氏
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終わってから分析をしたり、
解説したりしてみても、
見極める力なんてつきません。
また、同じ過ちを繰り返します。
自分では叩かないで、
まさに人任せなのです。
断っておきますが、
疑う力というのは、
猜疑心とは違います。
by. 桜井章一氏
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疑う力、見極める力が強いからこそ、
内面の隠された部分も取り出すことができるのです。
疑う力、見極める力が強くない人というのは、
人任せになったり流されたりで、
人の意見に抵抗ができない、
上の者にいつも追従する人間になってしまうわけです。
疑う力を持つことで、確信も持て、
納得感が生じてくるのです。
他人の言いなりになって生き続けていれば、
欲求不満になってしまいます。
by. 桜井章一氏
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人間にとって、抑えられても、
女房に抑えられても、
親に抑えられてもよくない。
一方、自分の考えを押しつけることを、
愛とか思いやりと思っている人がいっぱいいます。
あるいは、我慢すること、耐えることが、
思いやりであり、
やさしさだと思い込んでしまっている。
自分が見つけた我慢ならいいのです。
by. 桜井章一氏
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けれども、たいていは、
人の目や世間体があるから我慢するとか、
褒美がもらえるから我慢する、
になってしまっている。
しかし、自分は正しいと言い切れる生きざまをしている親が、
はたしているのでしょうか。
親とは大人であり、
大人がつくった世界はおわかりのように、
これだけ悪いのですよ。
世の中が悪いということは、
世の中をつくっている大人が悪いということです。
by. 桜井章一氏
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ということは、私たちが悪いということです。
「お父さん、お母さん、申し訳ないけれど、完璧ではないですよね。
自分に一〇〇点満点はあげられませんよね。
いいとこ五〇点。
私自身、そう自覚しておりますが、どうでしょう」
その五〇点の生きざまに、
自分たちが納得していないから、
欲求不満がつのって、
子どもたちに八〇点、
九〇点を取らせようとする。
くり返しますが、両親のいうこと、
先生の言うことを半分聞いて、
半分は聞かないほうが、いい子であり、
素直な子だと思います。
by. 桜井章一氏
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全部立派だったら、神様です。
たいていの親は、
ろくでもないところが半分はあります。
それならば、堂々と、
「お父さんには、こんなダメなところもあるんだよ」
と言えばいいのです。
真の教育であれば、
真の教えであれば、
自分の悪いところも教えるべきです。
by. 桜井章一氏
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いいところも悪いところも、
さらけ出してしまえばいい。
かつて悪事を働き、
あるいは失敗をしでかして、
そこを乗り越えた経験があるのであれば、
その経験談を話して聞かせればいい。
そういう話が子どもにできたときにはじめて、
その罪が帳消しになるのです。
いいところも悪いところも出して、
はじめてお互いの間に信頼が生まれるのです。
by. 桜井章一氏
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一見、おとなしくていい子のように見えていても、
結局自分の本音を殺して、
いい子を演じているにすぎないのです。
また、頑固な親に抑えつけられていて、
本当に落ち着ける場所がない、
あるいは親のいうことに納得できない部分があるあら、
反動でチャランポランしている、
などということもあります。
管理して常識的に育てるのも、
放りっぱなしで非常識な子にするのも、
どちらもダメ。
両方を否定できる子にしなければなりません。
by. 桜井章一氏
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子どもは半分だけ、
親の言うことを聞けばいい。
もっといえば、私自身は、
子どもは私の言うことの三割も聞けばいい、
と思っているくらいです。
「甘えはいけない」と言いますが、
男と女でも、二人っきりになれば甘えっこします。
それと同じような甘え方が、
親、それもとくに父と子の間になければ、
健康な子どもには育ちません。
厳しいだけでも、甘えさせるだけでもいけない。
by. 桜井章一氏
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