■雀鬼流。~桜井章一の極意と心得~ -三五館-
麻雀というのは、牌と合一すれば勝てるんです。求めるべきなのは、安住ではなく、試練なんです
誰が見てもきれいなやり方で勝てれば、
これにこしたことはない。
ですが、たいていの人は、
ほかの人たちもやっているから、
私もやっちゃう、
というふうになってしまってるんです。
食べてはいけないといわれたリンゴを食べて、
エデンの園を追い出されたアダムとイヴの話にもありますが、
神代の昔から、人間というのは、
誘惑に弱い。
そして、大人になればなるほど、
たくさんの誘惑が向こうからやってくる。
ですが、私は、
たとえ回りの百人の人がやったとしても、
やりません。
by. 桜井章一氏
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言い換えれば、麻雀というのは、
牌と合一すれば勝てるんです。
けれども、
人間のあさはかな知識や、
金銭欲や名誉欲が、
そうすることを邪魔してしまう。
牌との合一化の一番の妨げとなるのは、
人間の持つ執着心(依存心)です。
学問でも、賭けごとでも、執着すると、
かたくなになってしまいます。
一つのものにとらわれると、
それしか見えなくなってしまう。
by. 桜井章一氏
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かたくなにならず、
自然体でことに臨むべきなのです。
人がなぜ学ぼうとするかといいますと、
学ぶことによって「偉くなりたい」「楽になりたい」
「安定を得たい」といった、
「私欲」が含まれている場合がほとんどです。
しかしそれでは、
高度なレベルにはいけない。
求めるべきなのは、
安住ではなく、
試練なんです。
試練が、人を鍛え上げてくれるんです。
by. 桜井章一氏
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つねに公の精神を忘れないで、
不安定や危険に飛び込んでいく姿勢を持っていないと、
低いレベルからはなかなか脱し切れないんです。
「私を捨てて、公で打て」ということを言い換えれば、
「人間としてやるべきこと、やらなければならないことを優先させろ」
ということなのです。
だれが座ってもトップを取れる場所が生じます。
このように麻雀の場合、
偶然性で結果が作られてしまうことがあるのです。
by. 桜井章一氏
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運を定義すると、
偶然が織り成す業なのです。
麻雀とは、
良い偶然性と悪い偶然性の二つが入りまじったゲームなのです。
こうした運は、
レベルが下の者ほど多く含まれ、
上級になればなるほど少なくなるものです。
上級になればなるほど、
初めて技術対技術、
力対力の勝負が可能になるのです。
by. 桜井章一氏
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真の強者というものは、
そうした運の偶然性をも読み取ることができなければならないのです。
麻雀で強いといわれている人は、
まず、その日そのときの運を的確に見極め、
その度量を知り、
相手のツキを測り、
そして分析するのです。
そして地運(自力運)にすがって辛抱をして、
工夫と努力、勇気を持つことで、
運を懸命に自分のほうに変化させようとするのです。
力ある人は、
運任せの人から運をかすめ取る工夫をし、
ヘボな者が運を落としてくるのをじっと待つという、
この二つの策を取っているのです。
by. 桜井章一氏
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一打一打を慎重に打って、
必然性を追求するだけでは半分しか勝てない。
もう半分の運の部分の偶然性をも読まなければ勝てないのです。
目に見えるところ、
計算できるところの必然性を追うほうがたやすい。
目には見えない、
偶然性の部分を読み取ることは、
非常に難しい。
by. 桜井章一氏
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ですから、裏プロといわれている人たちは、
配牌の偶然性なども当然読みに入れているのです。
そして、つぎの一局ではだれが和了ってだれが振り込み、
そのときの点棒の移動がいくらになるか、
までわかるものです。
さらにつぎのつぎの局に、
自分が二千点を振り込む、
ということまでわかってくる。
ですから、
「ロン(アガリ宣言)」といわれる前に、
二千点を卓上に出しても、
間違うことはなかったのです。
などということも、読んでしまう。
by. 桜井章一氏
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こうした偶然性を読むためには、
重厚な実践体験や分析力、
さらには予知能力が必要になってくるのです。
真の必勝法には、
絶対にこの予知能力が必要になってくる。
私には見えないのに、
彼ら(フィジーの現地の人)は水の中の魚が見えていて、
獲ることができる。
他者には見えない伏せた牌が私に見えるのと同じなのです。
by. 桜井章一氏
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人は皆、
程度の差こそあれ、
こうした能力を本能的に持ちあわせているはずなんですが、
世の中が進歩しますと、
こういった能力はこころの奥底に潜り込んでしまうもののようです。
人間が裸で暮らしていた頃は、
そういう能力をいっぱい持っていたのでしょうが、
教育だの、知識だの、損得だの、
文化だのというようになってきて、
失われてきているにすぎないのです。
原野に生きる動物や人間にとって、
自然や危険に対する予知能力は、
生きるための必須条件だったでしょうし、
すばらしい技そ持つ職人や芸術家も、
技術以前の勘(感性)が、
普通の人の数倍すぐれている人なのだと思います。
この予知能力に代表される心の力を取り戻すために、
日々の生活や麻雀の中で自分の感性を磨いていなければならないのです。
by. 桜井章一氏
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競輪選手 中野浩一氏
「全体的なレースの流れっていうのは、
いつもわかっていなくてはならないんです。
現役の頃、
レース中にほかの選手から妨害行為を受けることがあるんですよ。
ふだんおとなしい人でも、
自転車に乗ると人格が変わって、
やることもあるんですね。
ですが、私の場合、
妨害されても、黙ってて、
それを見てるって感じでしたね。
それは、レースというのは、
一対一の勝負ではなく、
九人で走っているわけなので、
そいつにだけ勝っても、
お客さんに応えたことにはならないんですよ。
ですから、
当たってきているそいつを見るのではなく、
これからどうすべきかをつねに頭に描いていましたね」
(「近代麻雀ゴールド」一九九六年二月号より)
by. 中野浩一氏
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自分の手牌はもちろんですが、
敵の三人の表情、
河(牌山の内側、牌を捨てる場所)の捨て牌など、
あらゆることに気をくばって、
それでいてどこか一箇所に気を取られてしまってはいけない。
つまり、
部分的なものに目を奪われることは避けて、
勝負全体を、
流れを見ることが大切なのです。
人の作り出したものに、
人に自分のペースを崩されないことが大切です。
そのためには、
「揺れない心」つまり心の落ち着きがないと、
全体の流れはつかめない。
by. 桜井章一氏
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沢庵禅師(江戸前期の禅僧)
「向こうへも右へも左へも、
四方八方へ心は動きたきように動きながら、
卒度も止まらぬを不動智と申し候」(『不動智神妙録』)
無念無想、
木石のようになれ、
というのではなく、
「四方八方に気をくばり、
最新の注意を払いながら、
しかもどこへも心をとどめないこと、
これを不動智というのだ」
といっている。
プロとアマチュアの最初の分かれ目は、
たとえ役満(満貫の四倍の、最高のアガリ役)を振っても「カッ」として乱れたりしない「冷静さ」「慎重さ」なんです。
by. 桜井章一氏
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では、どうしたら「カッ」としなくなるのかといいいますと、
振ったのはだれのせいでもないこの私の判断なんだ、
ということを認めるところからなんです。
他人のせいにしたときから、
自分との戦いに敗れることになり、
勝負に必要な「判断力」「記憶力」「集中力」「推理力」「構成力」「分析力」「注意力」のすべてが機能しなくなってしまうのです。
慎重派が負けるパターンは、
慎重であるのに、
安全牌がひとつもない場面に追い込まれて、
結局そこで放銃(振り込み)することになるのです。
すると、気分的にいっそう弱気になり、
これもダメ、
あれもダメの何を切ってもアタリの気がしてきて、
「迷い」と「弱気」に落ち込むことになるのです。
by. 桜井章一氏
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