私は能力という点から人をまったく判断していない。私の思うかわいさというのは、「地」であればいいということ。能力でその人を判断している限り、淋しさは消えることはない

■この世の掟をぶち破れ! -李白社-

私は能力という点から人をまったく判断していない。私の思うかわいさというのは、「地」であればいいということ。能力でその人を判断している限り、淋しさは消えることはない

彼はおそらく、
会社の業績を上げるとか、
能力のある人間に期待しているのだろう。

でもただそれだけ。

だから、経営者ってやつは淋しいんだよと思ったのだ。

しかし、かわいいと思うのは、
その人に能力があるとかいう問題ではない。


by. 桜井章一氏

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その人ができるかできないかは関係ない。

なぜなら、私は能力という点から人をまったく判断していないからだ。

その人の持つかわいさだけから人を見ているのだ。

私の思うかわいさというのは、
「地」であればいいということ。


by. 桜井章一氏

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それこそ嘘つきでもいいし、
バカでもいい。

何でもいい。

それが「地」であれさえすればいいのだ。

見栄とか嘘とかで固めた人は、
すぐに見抜かれてしまう。


by. 桜井章一氏

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私の道場に来る子も最初は自分を隠してやって来る。

たとえ悪いやつでも「地」であれば、
それでいい。

「地」を出してればかわいいと思ってもらえる。

能力でその人を判断している限り、
淋しさは消えることはない。


by. 桜井章一氏

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能力というのはその人を見る一部分でしかないのだ。

しかし、それだけ(能力のあるなし)だけが一〇〇パーセントだったら、
仕事なんてつまらない。

やはり一緒に仕事をしている人たちに対して、
「かわいいな」という感覚を増やしていくことのほうが仕事も楽しくなる。

誰だって、
大好きな人と仕事をするのが一番楽しいに決まっているのだ。


by. 桜井章一氏

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■瞬間力 ~逆境を乗り切る方法~ -竹書房- やる気があるっていうことは本当に大切だと思うよ。いつも持っていなきゃ ...

私などは、
何の仕事がしたいというわけではない。

好きな人とだったら、
その人と仕事をしたいと思う。

でも世間では逆で、
まずは仕事ありき。

だから人間関係がガタガタになってしまう。


by. 桜井章一氏

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好きな人とだったら何でもいいという考え方を持ったっていい。

そうすれば、
どんな嫌なことも辛いことも一緒になって楽しみに変わっていく。

そういうかわいいとか楽しいとかいう感覚を脇に置いて、
世間的な見栄から価値判断を決めてしまう。

成功したとか業績を上げたとか、
そういう本来の感覚ではないところに身を任せてしまうから、
本当のよさを見落としてしまう。


by. 桜井章一氏

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楽しさよりも成功を求めてしまう。

成功というものは、
たしかに勝つことである。

「成功=勝った」ということは、
つまり攻撃が効いたということ。

それは人間の本能に属するもので、
ある意味必要な部分である。


by. 桜井章一氏

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■体を整える ~ツキを呼ぶカラダづかい~ -講談社- 感覚を探るのは難しいが、違和感を覚える部分はいくらでもある ...

しかしそれは、
本来人間が持っていた平衡感覚やバランスさえも奪ってしまった。

勝つために人を能力だけで判断するというのは、
攻撃だけが表に現れただけで、
必ず失うものが出てくる。

そうした平衡感覚というものを失ってしまったのだ。

成功したとか業績を上げたとかいうのは、
楽しいということが土台にあってこそ、
人と人のふれ合いがあってこそ喜びが増すものではないだろうか。


by. 桜井章一氏

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あなたは楽しいという感覚を失っていないだろうか。

本来持っている感覚の延長に仕事がある、
そのことを忘れないでほしいのだ。

私は人を叱るということがほとんどない。

たとえ叱ることがあっても、
笑いながら、
「それは違うんだよなあ」という感じの叱り方をする。


by. 桜井章一氏

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どう叱るか、
私は叱り方をとても大切にしている。

感じとしては、
まあるく叱ってやるくらいのもので、
それでも、言われたほうは十分通じている。

だから、叱るというより相手に気づかせるというような感じといっていい。

相手に「直せ!」と直接いうのではなく、
「お前もよくやるよね」と、
その人の癖の部分を注意してあげるといいのだ。


by. 桜井章一氏

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■人は八割方悪である -竹書房- 真の強者は自立した存在である。いかなる時も自分の感性と感情を捨てない かつ...

上の者が下の者に叱るというのは、
すでにそれだけで上の者の攻撃力が強い。

それがどんな理由であろうとも、
下の立場からすれば、
ものすごく攻撃性を感じてしまう。

それは愛であったり、
やさしさだったり、
教えの形であっても同じことで、
しつけも形を変えた攻撃であるということに気をつけないといけない。

上の立場の人間は相手に何かを諭す時、
すべて攻撃性とともにあるということを忘れてはいけない。


by. 桜井章一氏

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つまり、怒るとか怒らないという形式の問題ではなく、
自分の攻撃力がどう出ているかということを自覚しておかなければいけないということだ。

そうした自覚がない段階で、
どう叱ればいいか、
どう褒めればいいかということを必死に学んでも意味はないのだ。

上手に叱ろうと上手に褒めようと、
あなたが親の立場である限り、
子どもに対しての攻撃性が強いのは当たり前なのだ。

だからこそ、子どもが自分で気づくしか方法はない。


by. 桜井章一氏

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本気で叱るということが、
あなたの感情からであれ、
学んだ末に意図的にやっていることであれ、
そんな考え方は捨ててしまったほうがいい。

自分の攻撃性を自覚していない限り意味がない。

叱られた相手も変わるはずがないのだから。

とくに男の世界だから、
けじめというか掟のようなのがあって、
それはそれで大切なことだ。


by. 桜井章一氏

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