■賢い身体 バカな身体 -講談社-
自然の本質的な変化というのは見えないものです。自分と相手を分けるものがなくなり、全体としてひとつになっている感じです。等身大で自分を見れば、自然でいられるし、たえず冷静でいられる
流れをつかんでいる人は、
ひとつやったら次のことがもう始まっています。
そういう感覚で、
スッスッスッと連続していく。
それが流れになるわけですが、
日常をこの感覚でやっている人は身体の使い方も違ってくるんじゃないでしょうか。
ひとつで終われば間が抜けてしまいますが、
流れがつながっていけば必ず広がりが出てくるし、
これが甲野先生がいう全体が協力するみたいな身体の感覚につながってくるんだと思いますね。
by. 桜井章一氏
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ところが中には、
天才的に自然とほぼ一体化したように身体を動かすことができる人がいるんですね。
ふつうのようでいて、
まったくふつうでない動きのすごさを非常に感じました。
自然を動きの中に入れていくと、
どんどん自然の動きに技が近づいていきます。
人は自然には敵わないわけだから、
人が自然の動きができれば、
その人には誰も敵いません。
by. 桜井章一氏
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自然の本質的な変化というのは見えないものです。
麻雀も同じように東南西北という自然が反映される空間だからそこで動くものが見えない。
「自然に伸びやかに動く」というのは、
とらわれるなということですね。
いまはいろいろ刺激するものが多くて、
それに人がとらわれやすい環境と言えますが、
とらわれから開放されれば、
より自然に近くなるということです。
by. 桜井章一氏
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「意識しない自然な動きをしろ」という教えは、
実に教えるのが難しい教えですね。
いろいろやって道が終点近くになってそんな言葉(止めればいい)が出てくるんだと思います。
意識して何かしようというものが強くなると、
コントロールする気持ちが出てくるものですが、
コントロールというのはしょせん大したものではないと思う。
それは自然というものからすると甘いし、
ウソくさくなる。
by. 桜井章一氏
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海という自然の中で自然に身を任せていると、
ふだん使っていない身体の部分が動き出して、
自然に近い身体使いの発見があったりするんですね。
まさに「止める」ということと自然はつながっている。
牌から離れる「牌離」といってもいい。
麻雀やりながら、
どんどん牌から離れていっている。
by. 桜井章一氏
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世間の人がやっているのは麻雀だけど、
自分たちがやっているのは麻雀じゃないと思っている。
だからやればやるほど麻雀じゃなくなっていくんです。
面白いこと勝負で勝とう負けまいと意識すれば、
一打一打の意味は見えてこないけど、
牌離の状態にあれば、
先生がいうようにひとつひとつがすべて完全な意味を持って身体に響いてくるんです。
ただ、先生が言われたように、
「できるかな、できないかな」
という賭けの感覚というものはそこにはなくて、
水がスッと流れていくように13位になるというのが出てくるんですね。
by. 桜井章一氏
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理由もなく自分の中で確信のように出てくるんです。
こうして何かポン!と人のことを当てたり、
こちらの思いがスッと実現したりするときというのは、
だいたい気分がよかったり、
心に遊びがあるときなんですね。
それは自然界の生き物ならみんな持っている本質的な力に近いものだと思うからです。
だから自分では能力でなく資質のようなものだと思っています。
by. 桜井章一氏
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あえて言えば、
自分と他人を分ける感覚がはっきりしない感じはありますね。
自分と他人がお互いにはっきりと存在するのではなくて、
そうした個々の存在よりもその間の関係そのものというべきものが先にきて何かを感じる、
そんな感覚があります。
たとえば、先ほどの伊豆にいるときに電話してきた知人の話で言えば、
私はその人がひどく近い位置にいるように感じるわけです。
一方その場にいる道場生にとってはその知人は姿が見えないし、
遠い位置にいる。
by. 桜井章一氏
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でも私はその知人に対して距離がない。
そばに密着しているような感覚になる。
だから思いの微細な波のようなものが相手にスッと届いて、
その人がどういうところにいるのかが出てくる。
反対に見えない人にとっては距離が遠すぎて思いの波が届かないんだと思います。
「偶然とは必然の中で起きる。
人には感じ取れないほどの微細な動きがある現象となって、
それを感じ取れる人にとっては必然になるし、
わからない人にとっては偶然になる」
というようなことを言ったことがあります。
by. 桜井章一氏
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ゲームをしている最中は、
自分の中に軸はあるのですが、
かといって自分自身にもまた相手の存在にもとらわれていない。
4人のプレイヤーの間で激しく動きが変わる関係をたえず感じながらやっている。
自分と相手を分けるものがなくなり、
全体としてひとつになっている感じです。
先生が言われるように「自分がこうやろう」
という意識がなくなっている。
by. 桜井章一氏
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野球のイチロー選手は、
「特別なことをしないのが特別なことです」
とインタビューで答えていましたけど、
本当の基本のレベルというものがよくわかっているんでしょうね。
この場合の基本というのは言い換えれば柔らかく打つということです。
柔軟性があるということ。
だから百人いて百人同じことをやっても柔らかさの種類も柔らかい場所も違うから、
こうやった方がいいよという教え方は千差万別なんですね。
by. 桜井章一氏
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雀鬼会では一般的な基本動作として、
「1秒で牌を打て」とか「相手を見るな」とか、
いくつかのことを教えているんですが、
これは見える基本型ですね。
しかし柔らかく打つといった、
もっと奥にある見えない基本動作を教えるのは麻雀の世界ではおそらく私だけだと思います。
見える基本なら真似できるけど、
見えない基本というのは真似できない。
それはすぐに変化するものなので、
その瞬間においてしか的確には教えられないんですね。
by. 桜井章一氏
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私の場合は、
調子をスランプという言葉でなくて波の高い低いでとらえますね。
人間も自然のものだから同じように変化の波があって当然だと。
だから波が少し低くなっても慌てる必要もない。
基本的には、「不調こそわが実力なり」と思ってます。
by. 桜井章一氏
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「不調こそわが実力」と思っていれば、
本当に不調のときでも平然としていられる。
自分の実力はこんなものと受け入れれば、
スランプなんて存在しようがないんです。
要は等身大で自分をとらえろということです。
等身大で自分を見れば、
自然でいられるし、
たえず冷静でいられる。
等身大でいられないからちょっとしたことでパニックになったり、
スランプだと騒ぎ立てるんですよ。
by. 桜井章一氏
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