■未知の力を開く! ~気鋭の精神科医が「雀鬼流」を診断する~ -ゴマブックス-
自分の中に潜む、ずるいところや卑怯なところを感じると、「あ、格好悪いな」と思うようになったのだ。私のこの”生まれてくる”感覚を大切にする気持ちは自然界に近いところにある
離れたところにいる人が近くにいるような気がする。
でもそれは本当に近づいているのではなく、
割り込んでいるだけ。
本当に近づくというのは、
肌で感じるものだし、
感覚的に近づくものだ。
だから、今の人たちは割り込むことにも割り込まれることにも鈍感になっている。
by. 桜井章一氏
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人の幸せに割り込む。
人の考え方に割り込む。
あるいは電車の中で割り込む。
本当の寂しさは人と人が触れ合ってはじめて埋められるものなのに。
近くて遠い、
遠くて近い、
その微妙なバランス感覚を磨きながら、
素敵な人間関係を築いてほしい。
by. 桜井章一氏
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言葉って怖い。
人を楽しくする言葉もあるが、
言葉は人を変えるし、傷つけるし、
相手を壊してしまうことだってある。
しかしこの言葉が、
正確に物事を伝えているのかというとそうでもない。
言葉は確かに便利なものだが、
その分、怖いところもある。
by. 桜井章一氏
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伝えるという存在意義を超えると、
洗脳したり相手を傷つけたりする言葉も出てくるからだ。
洗脳とは、相手の色を変え、
自分の色に染めてしまうということ。
だから私は若い人たちと接する時はそれが洗脳にならないように、
相手に応じて言葉を選び、
伝えたいことがきちんと伝わるように気をつけて接している。
言葉は相手の色を変えることができる。
相手を傷つけることもできる。
by. 桜井章一氏
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相手を壊すことだって可能だ。
言葉の虐待、
精神的な虐待という形で傷つけられ、
壊された人たちが。
子どもの頃、大人たちのずるい部分、
汚い部分を見ているうちに私は
「大人になればなるほど、汚くなっていくんじゃないか」
と感じるようになった。
「人間というのはよくなっていくものではなくて、悪くなっていくものなのではないか」と、
そんな気がしたのだ。
by. 桜井章一氏
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だから子どもの頃は大人になることを否定していた。
そういった大人たちを反面教師にして、
私は自分を見つめるようになった。
自分の中に潜む、
ずるいところや卑怯なところを感じると、
「あ、格好悪いな」と思うようになったのだ。
「これは自分の嫌なところだな」とか
「こういう部分はどうなんだろうか」
と自問自答している。
by. 桜井章一氏
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私は自分の中に感じるそれらの気になる部分を直すことはしない。
ではどうしているのかというと
「収める」ようにしているのだ。
「ちょっとこの部分は気になるから収めとこうか」
という感じである。
ずるいことや卑怯なことを平気でできるようになることを
「大人になる」というならば、
私は一生子どものままでいいと思っている。
by. 桜井章一氏
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知識は学校での勉強や本から得られるが
生きる知恵を得るにはやはり家庭の存在、
親の存在が欠かせない。
でも、その場ですべて縫ってくれる。
「後でね」というのがない。
母は自分を捨てて私たち兄弟に尽くしてくれた。
母は自分のことなんかいっさい考えていなかった。
by. 桜井章一氏
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自分というものを出さない人でもあった。
ただ唯一、母が自分を出したのは、
月に一回、母の母、
つまり私のおばあちゃんが田舎から出てきた時だ。
おばあちゃんが行李
(柳や竹で編んだ箱、籠)
を担いで月に一回必ず我が家を訪れる。
その時は私たち兄弟は家を追い出された。
by. 桜井章一氏
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そして母はおばあちゃんのために寿司を取る。
母とおばあちゃん、二人だけの時間。
母親とその母親の触れ合いの時間。
母はあの時だけ自分を出していたのだろう。
おばあちゃんの行李の中には、
米やそのほか田舎の産物やらいろんなものがいつも入っていた。
by. 桜井章一氏
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それを見ると、
おばあちゃんの母に対する思いが伝わってきた。
母親とその母親のつながりを見て、
子ども心にも「ああ、いいなぁ」
と思ったものだ。
今の世の中を見渡すと、
そこには作為が満ちあふれている。
作為の嫌いな私は、
少しでも作為のにおいを感じると
とたんに楽しめなくなってしまう。
by. 桜井章一氏
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私は自分自身、
少しでも気分よく生きたいし、
その気分のよさを誰かと共有したい。
盛り上げをつくるとか、
そのために何か準備をするとか、
そういう作為が私は嫌いなのだ。
私は常に、何もなくても生まれてくるという感覚を持っている。
子どもは生まれてくるものであって、
つくるものではない。
by. 桜井章一氏
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“生まれてくる”ほうが自然の感覚なのだ。
だから、笑い、楽しみ、
場を盛り上げる、
すべてを”生まれてくる”感覚でやっている。
無理につくろうとするとそこに作為が見える。
作為が入るのは自然ではない。
by. 桜井章一氏
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私のこの”生まれてくる”
感覚を大切にする気持ちは自然界に近いところにある。
何もなくても楽しく遊べる。
それが”生まれてくる”感覚だ。
ただ、私には友人とか親友とか、
そういった友達が一人もいないことにも気づいた。
私には”仲間”がいるのだ。
by. 桜井章一氏
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