■わが遺言 ~勝負の鬼が辿りついた50の境地~ -ポプラ社-
「問う」ことは、すなわち「答え」なのである。本質を見るのは怖い。だから人は本質から目を背ける。思いやりややさしさといった”心”に限度はない
「鬼(雀鬼)に戦略はないが、神には戦略があるな」
社会でいいとされることだけを扱うのが神様なら、
いいことも悪いこともひっくるめて考えるのが鬼である。
商売の基本は宗教にあるのではないかと思う時が度々ある。
人間は弱い生き物である。
だから何かにすがっていなければ生きていけない。
by. 桜井章一氏
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願いを叶えてくれる絶対的な存在を多くの人が求めている。
日本人は無宗教だと言われるが、
私の目には世間の人々が拝金主義の風潮にまみれた、
いわば経済宗教の信者になってしまっているように映る。
何事も「過ぎる」ことはよくないが、
今の日本人はお金に頼りすぎている。
「信じる」という言葉を生み出したものが人間の弱さだとするならば、
その弱さを乗り越えていくには、
自分以外のものを信じるのではなく、
まずは自分自身を「信じる」ようにしてみてはどうだろう。
by. 桜井章一氏
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だから100%自分を信じるのではなく、
半信半疑くらいの感覚で自分を信じてみる。
それを続ければ、
「何かに頼る」「すがる」
ということは少なくなっていくはずだ。
私なりに解釈すると”答え”とは結果であり、
“問い”とは経過である。
私は結果より経過を重視する人間なので、
経過が納得できるものであれば結果はどうでもいいと思っている。
by. 桜井章一氏
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雀鬼会では世間の人たちが求めているような結果も成果も求めない。
「なぜできないんだろう?」
「どうしてそうなってしまうんだろう?」
と日々疑問を持ち、
答えは見つからずともそこから何かしらの学びを得る。
日々の暮らしの中で疑問がたくさんあったほうが生きていて面白い。
私の人生には常に”問い”
を求める姿勢があったからこそ、
今まで楽しく生きてこられたのだと思う。
by. 桜井章一氏
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常に問いを立てる生き方をしていれば、
先を読む力が養われ、
人生の選択においても最善の道を選べるようになる。
問いを立てることができれば、
極端な話、答えはいらない。
答えはおのずと問いに含まれるからだ。
「問う」ことは、
すなわち「答え」なのである。
by. 桜井章一氏
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結果を求めて不安に苛まれる人生を送るくらいなら、
好奇心を持って問いを探す生き方をしてみてはいかがだろう。
でも私には、世の中で言われている
「オンリーワン」を目指すということは、
過度な自己実現を求められているような気がして、
結局のところ競争社会で繰り返されているような消耗戦が再び続くだけなのではないかと思ったりもしてしまう。
私は今まで、自分だけの道を切り拓いて生きてきた。
それがよい道なのか、悪い道なのか、
歩いてみなければ分からない。
by. 桜井章一氏
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でも、誰かがすでに歩いた道を歩くのでは楽しくないから、
危険は承知の上で険しい道を好んで選んできた。
道が険しければ険しいほどそこに
「面白いじゃねーか」
とやりがいを感じ、
自分だけの道を歩んできた。
私の言う「オンリーワン」は、
努力してなるものでも、
がんばって到達するものでもない。
素の自分、自然体の自分でいれば誰もがそれだけで
「オンリーワン」なのに、
心身ともに着飾ることを常に意識していると
「素の自分」でいることがとても難しくなる。
by. 桜井章一氏
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「オンリーワン」を目指すことにも疲れてしまった人は、
自分の個性を磨くことはちょっと脇に置いて、
自分の周囲に目をやり、
他者に気を配る、
気を遣うということをしてみてはどうだろうか?
要するに「オンリーワン」だけの状態から
「オンリーツー」の関係性の中に自分の身を置くのだ。
「オンリーワン」ということだけに気をとられている人は周りが見えなくなってしまっている。
人間はこの社会で生きている限り、
決してひとりでは生きていけない。
by. 桜井章一氏
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自分の周囲のさまざまな関係性に気づく事ができれば、
そこにあなたなりの気配りや思いやりがきっと出てくるはずである。
そしてその気配りや思いやりは紛れもなくあなたの個性であり、
そんな他者との関係性の中で生まれてくる素直な行為の繰り返えしによって
「オンリーワン」のあなたが自然と形作られていくのではないだろうか。
パソコンを上手に使いこなせば、
自分の力以上のものを見せることも可能となる。
デザインの力量がそれほどなくても、
コンピューターの力を借りればかなりのことができるようになる。
by. 桜井章一氏
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だが、五輪エンブレム問題の顛末を見てもわかるように、
「張子の虎」ではないがいくら見せかけの”よさ”
で自分を取り繕ったとしても、
それは本当の自分、
あるいは本当の実力ではないからいつかはボロが出る。
自らのハードルを少しずつ上げることで、
着実に実力は付いていく。
そういった「少しずつ」
の成長であれば問題はないかもしれない。
私自身は今まで、等身大の自分、
ありのままの自分、
素の自分をさらけ出して生きてきた。
by. 桜井章一氏
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何よりも素の状態は楽だし、
その”楽”が生き方に余裕を生み、
人としての成長を促してくれたように思う。
力みに力んで、
自分を高く売る必要はない。
成長の仕方は人それぞれなのだから、
欲張らず、自分にあった高さにハードルを設定し、
ちょっとずつ成長していけばいいのだ。
私は昔から「考えるな、感じろ」
ということをずっと言ってきたが、
それでも最低限物事をちゃんと考える、
つまり「正しく考える」
ことはとても大事だと思っている。
by. 桜井章一氏
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正しく考えるにはまず何よりも、
物事の道理をわきまえていないといけない。
本質にはいいことも悪いことも、
いろんなものが含まれているが、
「いい本質」ばかりを見ようとするから正しくものを考えられなくなってしまうのだ。
自分にとって都合のいいことも、
悪いことも、
清濁併せ呑むことで本質を見極められるようになり、
そこから正しい考え方が導き出されるのである。
本質を見るのは怖い。
by. 桜井章一氏
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本質には見てはいけないようなもの、
化け物のようなものがたくさん潜んでいる。
だから人は本質から目を背ける。
しかし、時代の大きな転換期を迎えている今、
世の中を正しい方向へと動かすためにも私たちは本質を恐れずに見つめ、
そこから物事を正しく考えていかなければならない。
でも、それ以上に自分という人間を
「安っぽく見られてしまう」
のはよくないことだと思う。
by. 桜井章一氏
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安っぽい生き方をしていれば、
当然のことながら安っぽく見られてしまう。
では、安っぽい生き方とはどういう生き方か。
ひとことで言えば、”心のケチ”である。
だが、思いやりややさしさといった”心”に限度はない。
気持ちよく、そして限度なくまわりに心配りのできる人は、
みなサービス精神を持っている。
by. 桜井章一氏
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