「私はなぜ生きているのか?」。「この世には、私にしかできないことがあるから」。「敵も味方」。”言葉”と”お金”はとてもよく似ている

■わが遺言 ~勝負の鬼が辿りついた50の境地~ -ポプラ社-

「私はなぜ生きているのか?」。「この世には、私にしかできないことがあるから」。「敵も味方」。”言葉”と”お金”はとてもよく似ている

周囲のことをおもんばかり、
「周囲のために自分はいま、何をすべきか?」
を考えていかないと、
仕事はうまくいかないし、
さまざまな人間関係も崩れていってしまうことだろう。

つまり、「あの人は仕事ができるね」
と周囲から評価されている人、
仕事が順調にうまくいっている人は、
相手のことを相手の立場に立って想像できる力を持っている人なのである。

いつ、どんな時も、
周囲のことをおもんぱかる
“想像力”は決してなくしてはならないのだ。

「他の人に認めてもらいたい」
という欲求は、
人間ならば誰もが持っているものである。


by. 桜井章一氏

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誰からも相手にされなければ、
人は不安になるし、怖くもなる。

さまざまなコミュニティの中で生きていかなければナラない人間にとって一番怖いのは、
周囲から”無視”されること。

「認めてもらいたい」「相手にされたい」
という気持ちが大きくなりすぎると、
人の言動には嘘が入り込んでくる。

自分の本心ではないことを言う嘘、
あるいは誰かを騙そうとする嘘など、
嘘にもいろいろあるが、
とにかく自己愛が大きくなりすぎれば人間は嘘っぽくなってしまうのである。


by. 桜井章一氏

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どうせこの世に生を受けたのだから、
少しでも楽しく生きたい。

私にとっての人生はそれ以上でもそれ以下でもない。

そんなどうしようもないこと(人間はなぜ生きているのか)を考えるのは、
地球上の生き物の中で人間くらいのものである。

アマゾンの奥地で暮らす部族の人が
「私たちはなぜ生きているのか?」
などと考えるだろうか?


by. 桜井章一氏

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彼らはそんなことに囚われたりはしないだろう。

哲学者はそういったことを考える人たちなのかもしれないが、
真の哲学者は「人間はなぜ生きているのか?」
などという野暮な問いかけをしたりはしないと思う。

「私はなぜ生きているのか?」。
その問いにあえて答えるとすれば、
「この世には、私にしかできないことがあるから」
となる。

私の代わりは誰にもできない。


by. 桜井章一氏

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存在としての”代わり”ではなく、
社会的な役割を果たすという意味で私の”代わり”を務められる者はいないし、
道場生たちも「会長の代わりは誰にもできっこない」
と思ってくれている。

別にそれが私の自負や矜持になっているわけではなく、
己の生き様として、
私はそれで納得している。

同じ”あきらめる”と”あきらめない”でも、
実は幾千種類もの”あきらめる”と”あきらめない”
があるのだ。

勝負の中に存在した、
いくつかの「あきらめていいもの」
を羽生(善治)さんは卓越した勝負勘で選び抜いた。


by. 桜井章一氏

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このように、勝負には
「あきらめてはいけない」時もあれば、
「あきらめていい」時もある。

そして、「あきらめていい」
時にもいくつも種類があって、
センスのいいあきらめ方をした人に対して勝利の女神は微笑むものなのだ。

そもそも「あきらめる」が悪で
「あきらめない」ことが良しとされるのは、
権力者たちが下の人間を扱うために用いた詭弁でもある。

権力者が下の人間たちを思い通りに扱い、
事を成し遂げるには何よりも
「いかにあきらめずに続けさせるか」
が肝心となる。


by. 桜井章一氏

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「夢を叶えろ」や「希望を持て」
といった聞こえのいい言葉も、
権力者たちによって用いられた詭弁のひとつである。

もちろん、へこたれそうな時に
「負けるもんか」と戦い抜くことによって、
勝負強さは身についていくものだから、
「きついから」とか「大変だから」といった理由だけであきらめてしまうのは考え物である。

あきらめなかったばかりに深みにはまり込み、
傷口を広げてしまうことは勝負事でも人生でもよくあることだ。

これは分かりやすく言えば「いい見切り」
ができなかったということである。


by. 桜井章一氏

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私たちは「あきらめ」
を悪いこととは捉えず、
それを上手に見つけられるセンスを磨いていけばいいのだ。

競合する他社を「敵」でなく、
業界全体をともに盛り上げる競争相手と見なせば、
ウインウインの関係を構築するための健全な発想となり、
自分もより継続して成長していけるはずである。

だが、「昨日の敵は今日の友」
ということわざもあるように、
とかく人間関係は移ろいやすいもの。

ライバル同士がぶつかりあい、
そこに反応が起こって勝負の流れができる。


by. 桜井章一氏

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そう考えると、”弱い人”というのが本当にいるとしたら、
その人には競争相手はいないのかもしれない。

そんな人たち(戦いに疲れ、萎えている)は
「自分はダメだ、弱いんだ」と思わず、
「ちょっと疲れているだけなんだ」
と考え方を切り替え、
一時の休息をはさむなどすれば戦う意欲が再び湧きあがってくるはずだ。

人生は勝ち残り戦のようなところがある。

とどのつまり、我々は競争社会の中で生きていかざるを得ない。


by. 桜井章一氏

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であるならば、敵、
味方と白黒つけるような判断を下すのではなく、
「昨日の敵は今日の友」の感覚で流れの変化に柔軟に対応していくことが大切だと思う。

「敵も味方」の感覚を身に付けるには、
何よりもまず自分の”分””力量”あるいは”立場”
をわきまえることが重要だろう。

自分の状態、置かれている状況を知り、
身の程を知れば「自分ひとりでやってやる」
「自分だけで何とかなる」
というようなエゴイスティックな考え方は起こらないはずだし、
ちょっと負けがこんだからといって
「もう自分はダメだ」
とすぐに悲観的になるようなこともなくなるはずである。

また、「敵も味方」の意識によって、
競争相手との一体感も生まれてくる。


by. 桜井章一氏

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勝負をよりよいものにするには、
この一体感が不可欠なのだ。

多くの人にとって、
「よりにもよって」は「偶然の出来事」
という認識であろう。

確率が限りなく0に近い、
奇跡的な出来事であったとしてもそれが
“必然”であることは実は少なくない。

「よりにもよって」という出来事には、
宝くじに当たるのと同じ次元の偶然事と、
見えない因果の糸によって手繰り寄せられる必然事がある。


by. 桜井章一氏

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しかし、この世の事象の多くは小さな必然性の流れが幾重にも重なることによって現れているのだから、
「よりにもよって」という事態もただ
「運が悪かった」だけですませることはできない。

日常の些細なことを含むあらゆることが、
隠された見えない糸によって
「よりにもよって」ということと繋がっている。

普段の生活と「よりにもよって」
という事態を別個のものとして捉えず、
円のように繋がったものだと考えれば、
「よりにもよって」という事態に遭遇する機会は減っていくかもしれない。

間合いとは”時”と”距離感”のことであり、
このふたつのバランスをうまく計ることで、
次への展開に備えることができる。


by. 桜井章一氏

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日常の生活の中でも
“人間関係”や”やるべきこと”など、
あらゆることとうまく”間合い”を計っていくことが大切で、
それこそが「よりにもよって」という事態をなるべく避けるために欠かせないことなのだ。

本来ならば、「すみません」の後に
「具体的にどこがいけなかったのか」
を分析、検証し、さらに
「どのように改善していくのか」
という今後の道筋を指し示さなければならないのだが、
「すみません」が口癖になってしまっている人たちにそのような意識は希薄で、
そこには反省もなければ未来への展望もない。

(言葉は)その利便性ゆえ、
使い方次第で世の中をよくもすれば、
悪くもする。

そういった意味で(相手を傷つけもすれば、騙すこともできる)、
“言葉”と”お金”はとてもよく似ている。


by. 桜井章一氏

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「すみません」以外にも謝罪の言葉はいくつもあるが、
私にはどれもとても嘘っぽく聞こえる。

謝罪の言葉は自分をごまかすためだったり、
あるいは楽をするためだったりすることがとても多い。

だから「すみません」と謝られたとしても、
私はそこに嘘っぽさや欺瞞を感じてしまうのだ。

そもそも「すみません」は「済みません」
を意味しており、
要するに「間に合わなくてごめんなさい」
と言っているわけだ。


by. 桜井章一氏

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社会の流れにうまく対応していくには、
とにもかくにも”間に合う”
ことが第一である。

その時々で準備を怠らず、
さまざまな事象に対応していく。

そういったことを繰り返すことでしか周囲からの信用を得ることはできない。

「すみません」を繰り返してばかりでは、
周囲から孤立していく一方なのである。


by. 桜井章一氏

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