■超絶感性 -竹書房-
先に進んで和了れなかったら、己れの力不足をもう一度考えるだけである。麻雀の処理は、卓上を己れの舞台にすることが最善の道なのだ。本戦に勝つためには、その前に過酷な下準備が必要である
人は皆、卓に座った以上、
勝つ気であって、
その気持ちだけで他に変化がないと思っているようだが、
天地にも変化があり、
晴れたり曇ったり、
風だって吹く。
そして己の気分だって毎朝起きた時にも変化があるのだ。
だからこそ、己れでは気づかない気分が、
麻雀に出てくる。
麻雀はただ慎重型では、
うまさは見えても勝味が少ないし、
また気分一杯の豪快型でも、
いったん壊れるとメチャクチャになってしまう。
by. 桜井章一氏
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やはり型からいえば、
自在型がいいようである。
そして、ただ手じまいなんてこともほとんどなく、
和了る和了らないはともかく、
工夫努力をする麻雀を打つようになった。
流れを計る、
流れを取るという打ち方の一つに、
テンパイした時ダマテンを張って様子を見る場合と、
和了れる和了れないにかかわらず、
リーチと行ってみる場合がある。
ダマで張って、
他人まかせで運を取るより、
己れの力で運の流れを取りに行きたいからだ。
by. 桜井章一氏
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その結果、和了れなかったとしても、
「ダマだったかなあ」
なんて言葉は決して発しない。
先に進んで和了れなかったら、
己れの力不足をもう一度考えるだけである。
麻雀はすべて己れに都合良くあるものでは決してない。
不都合と都合のぶつかり合いであって、
己れに少しでも都合よくしたいと思うのなら、
多少の痛手や覚悟も必要である。
by. 桜井章一氏
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私の普段の教えの一つに
「満貫和了ったら3900や5200くらい返してやれ。
また満貫振ったら3900点だけでも返してもらいに行け」
とある。
こういう麻雀を四人が四人とも打てるようになれば、
麻雀そのものが生き生きしてくるのである。
麻雀というものが和了りと振り込みで成り立っている以上、
この二つがどちらも最善の型で現れるのが望ましい。
精一杯の努力や工夫があってこその麻雀の能力といえるのではないか。
by. 桜井章一氏
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麻雀には時と場合によっては、
己を犠牲にしてトス役をしなきゃいけない時があるのだ。
強者であるがゆえに、
強き部分も弱き部分も多く出る。
が、いくら強者であっても、
彼等も人の子、
勘違いもあれば、
思い込み違いもある。
明らかに間違っているとわかっていても、
そうしてしまうこともある。
by. 桜井章一氏
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迷いもすれば弱気にもなる。
しかし、強者である以上、
要所要所に好プレーも多くあるのです。
麻雀の処理は、
卓上を己れの舞台にすることが最善の道なのだ。
相手を己れの舞台に引きずり込めるかどうかが勝負の分かれ目、
といってもいいくらいである。
by. 桜井章一氏
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その優孝にしたって、
ラッキーでそこまで来たのでは決してなく、
死ぬかもしれない卓上で、
血を流し、体を張って、
闘ってきたのである。
麻雀における努力と工夫とは、
何も1局の和了りを求めることを指すのではない。
たとえ先に和了りが見えないからといって、
何もしないでただオリに回り、
なんとか逃げ回って難が去るのを待つのでは能がない。
皆さんは、
麻雀を和了る時のためだけに精一杯努力をしているようだ。
by. 桜井章一氏
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本戦に勝つためには、
その前に過酷な下準備が必要である。
その結果として和了れなくてもいい。
それより、リャンシャンテンをイーシャンテンまでもっていく努力が必要なのである。
リーチがかかわっている状況で、
リャンシャンテンのままで終わらせる者と、
多少脂っこい牌を切ってイーシャンテンまで先に進む者とでは、
えらい違いがあるのである。
by. 桜井章一氏
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そこに努力と工夫というものが含まれてくるのである。
このように、麻雀では、
できる限り一歩でも先に進むことで、
卓上全体が生き生きとしてくる。
そこでは、他力本願の勝利も、
ズルい者の勝利も打ち消されていくのである。
卓上では、いつも潔さが要求されるのである。
by. 桜井章一氏
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麻雀とは振り込みと和了りによって成り立っているのである。
それがわかっていながら、
麻雀においては必要以上に放銃を怖がり、
後ろへ下がってしまう。
なぜか。
それは1対1の勝負ではないからである。
都合の良い時だけ自分が場面に出ていって、
都合の悪い場面は他の三人にまかせてしまっている。
by. 桜井章一氏
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そんな型の裏に、
真の勝利があるだろうか。
金持ちだからこそ、
その牌勢を殺さないためにも、
もっともっと先へ進むのである。
点棒を維持できても牌の勢いを失ってはしょうがない。
逆に、その場で点棒を失うことがあっても、
牌勢を失わなければいいのである。
by. 桜井章一氏
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私が現役だったころは、
たとえば3万点の浮きのダントツ状態であり、
実際には自分のトップが目に見えていても、
そこにもう一人の仮想のトップ者を想定して、
あと1回、もう少し、
もっと和了らにゃ前の者に追いつかないと思い込む。
トップであっても、
少し足らずの2着であると自分に言い聞かせたものである。
そうすることによって、
いつも前向きの気持ちで、
日和りをなくし、
後ろからの追撃を追い払い、
ダントツの道を作り上げてきたのである。
麻雀はどうして強い打ち手が弱い打ち手に負けてしまうのか、
という疑問にテーマを絞ってみよう。
by. 桜井章一氏
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一つは、麻雀は将棋や囲碁と違って1対1の勝負じゃない部分があり、
そこに運の要素が入りやすい。
その運にしたって本当の勝負運ならともかく、
勝負に関係ないところの、
その日その人についている人運や方位運みたいなものが多分に作用してくる。
この運というものが麻雀には多分に含まれているから、
いくら必然性を追っても、
偶然性で結果が作られてしまうことがあるのだ。
こういった運は、
レベルが下の者なら下の者ほど多く含まれ、
上級者になればなるほど少なくなる。
by. 桜井章一氏
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そこで初めて技術対技術、
力対力の勝負ができるのである。
ところがどっこい、
私は「牌の音」ではよく負けるのである。
それではどうして負けてしまうのかというと、
失礼ながら、
相手があまりにヘタすぎるので打つ気が出なくなったり、
ふところ寂しい若き学生さんや、
私と同卓しただけでブルっちまってオシッコもらしそうなひ弱い人たちを見ると、
麻雀を離れたところで闘う意欲をなくしてしまうのだ。
上の者から下の者を見れば、
手加減する気がなくても気合いが入らないものなのである。
大人が子ども相手に相撲を取るようなものなのだから。
by. 桜井章一氏
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