■努力しない生き方 -集英社-
初対面の人と会うとき、人は誰しもたとえ一瞬にせよ、
相手がどんな人か、あるいは何を考えているかを探ったり、
読んだりする。
しかし私は、人と接しているときに大切なのはこのような分析よりも、
相手をありのままに感じることだと思う。
by. 桜井章一氏
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私はそんな才能以前に人はもっと大事な才能があると思っている。
その才能に気づいていれば、
わざわざ自分の中に社会で商品になる才能を見つけだして
磨こうなどと一生懸命に努力しなくてもいいと思う。
むしろ社会に出て評価される才能を見つけようとか、
それを磨こうという能力主義は必然的に苛烈な競争を生むものなので、
ある面、人を確実に不幸にしている。
しかし何をもって才能なのか、能力なのかというのは
その社会の価値観や文化的な尺度によって大きく変わるものだ。
by. 桜井章一氏
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人の才能や能力というのはそういう意味では
きわめて相対的なものだ。
そんなものより私はもっと人の根っこにある
大きな才能のほうが大事だと思う。
by. 桜井章一氏
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それは何かと言うと「生きる」という才能だ。
生きとし生けるものはみな生命に恵まれて、
生命を連続させることで今を生きている。
私はそれこそが人が持つ普遍的な才能だと思う。
by. 桜井章一氏
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いわゆる世間で評価される人の才能や能力は
もし自然の中に放りだされればほとんど通用しない。
そういう意味では限界があるし、
「たかだか」という面もあるわけだ。
だが、そんな才能や能力と違って、
人が生命を連続させて「今ここにある」という才能は
普遍的な強さを持つすごいものだと思う。
by. 桜井章一氏
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実際に私は「疲れたからちょっと休もう」というふうに、
「仕事」と「休み」を意識して分けることがない。
要は遊びながらやっているのである。
「この仕事がすんだらちょっと休もう」と思うから、
仕事が疲れて辛いものになったりするのである。
そうではなく、仕事をしながらその中で自然と休む。
そんな感覚で仕事ができれば言うことはない。
by. 桜井章一氏
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その理由はいくつかある。
まず相手を読むという分析では一つ、一つ、分析していくので時間がかかり、
全体を理解するまでに到らないからだ。
しかし、相手をありのままに感じていれば、
そのような必要はない。
相手を素の状態で感じることができれば
相手の全体像が何となく見えてくる。
by. 桜井章一氏
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分析すると相手のイメージはそこで固定されてしまい、
相手が変わってもその変化に気づかなかったりする。
しかし、感じるように接すれば相手も水が流れるように
絶えず変化しているのが肌身でわかるだろう。
by. 桜井章一氏
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分析とは結局、
自分が与しやすいよう相手のイメージをつくっていくことにほかならない。
分析することで相手の存在を収まりのいいものにしたいのだ。
だから分析をいったんしてしまうとそこで相手のイメージは固められ、
それ以上、前へも後ろへもいかなくなってしまうのである。
by. 桜井章一氏
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要するに、分析は分析したらそこで何かが終わる
ということである。
考えてみれば自分のことだってよくわからないのに
ましてや他人のこととなればなおさらだ。
人が人を分析をもって理解するということは
最終的に不可能なことである。
それよりも、自分が素直になって相手を感じるほうが、
相手を少しでも「わかる」状態になる。
by. 桜井章一氏
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「何となく」という、どこかおぼろげな感覚のほうが
対象にすっと入っていくことができるのだ。
このような絶対的な感覚、
「絶対感」ほど危険な感覚はないのだ。
なぜならこの世界でこれから起こることに対して
「絶対」と言い切れるものは何一つとしてないし、
すでに起こってしまった事実に対しても唯一絶対という
見方や考え方はないからである。
by. 桜井章一氏
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真実は藪の中と言うよりすべて相対的なもので決まると
言ったほうが正確だろう。
実際、現実のことは人間にとってすべて相対的なものでしかない。
だから「絶対」という言葉ほどあてにならないものはない。
by. 桜井章一氏
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「絶対」はこのように禁句と言ってもいいような言葉である。
反対に「だいたい」や「何となく」は適度な”あそび”がある感覚である。
そのほうがブレることなく安定するし、正確に前へ進めるのである。
「何となく」という感覚で対処していったほうが、
「絶対」という気持ちでいくよりも、長く続くものだし、
「だいたい」という感覚でいったほうが的を射る。
by. 桜井章一氏
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「何となく」や「だいたい」の感覚は、力みをなくし、
それゆえ余裕を持って全体を見ることができるからだと思う。
「絶対」と力んでいるときは視野は狭くなり、
感覚は鈍くなる。
人は大きな目標に「絶対感」を抱きながら
近づこうなんてしないほうがいいのである。
by. 桜井章一氏
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誇りや自尊心というのは、生きていく上で必要なものだが、
ときとして邪魔になることもある。
たとえば、昨今増えている自殺の原因は何よりも
この自尊心というやつだと思う。
プライドなんていいやと捨てられる人は
どんなに辛くてもその状態をしのいでいける。
這いつくばってでも生きていける。
by. 桜井章一氏
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