■究極の選択 -集英社-
対極にあるふたつのものが存在することで、この世の中はバランスを保ち、成り立っている。自分の外側にあるものに対する否定は、必ず自分の否定となって返ってくるからだ
日本人男性の平均寿命が五〇歳を超えたのは、
戦後すぐの一九四七年だという。
わずか半世紀ちょっとで日本人の寿命は約三〇年も延びたわけである。
私はこの「三〇年」の厚みが自然に違反しているような気がしてならない。
なぜなら人間の体が生まれながらに備えている耐用年数はせいぜい五〇~六〇年くらいに感じるからである。
by. 桜井章一氏
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だが、自然から恵まれた「生命」
は長さという量ではなく、
どんな生き方ができるかという「質」
を前提に考えるべきものである。
「生命」への過度なコントロールは間違いなく恩恵よりも不幸を多くもたらすと私は思う。
人間は本能的に「自分を守りたい」
と思う生き物である。
国と国の間に壁を築くように、
人は人間同士の間にも壁を築く。
by. 桜井章一氏
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それは目には見えない
「心の壁」である。
「心の壁」を築くのは、
「他人から干渉されたくない」
「傷つきたくない」
という防衛本能の表れだが、
それが行き過ぎると心はすっかり閉ざされた状態となり、
対人関係がうまくいかなくなる。
壁が高すぎるために、
自分の気持ちを相手に伝えることができないだけでなく、
相手の気持ちもまったくわからなくなってしまうのかもしれない。
EU(欧州連合)やTPP(環太平洋パートナーシップ協定)などに代表されるように、
世界は二〇世紀末以降、
国境を取り払い、
人とモノが自由に行き来できる社会をめざしてきた。
by. 桜井章一氏

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しかし、この「広がろう」「つながろう」
とする動きがあまりにも急すぎると、
自分の立ち位置が大きく揺れ、
不安にかられる。
グローバル資本主義はごく一部の経済的勝者と膨大な数の敗者を必然的に生み出す。
つまり、先頭を切ってグローバルにビジネスを展開しようとする者は
「攻め」の意識で国境を軽々と越えていくが、
その流れに抵抗する者は「守り」
の意識を強めていくことで自分が所属する国に必要以上に固執するのである。
だが、愛国ナショナリズムというのは純粋さゆえに強いというイメージを抱く人も多いが、
実のところはとても脆い。
by. 桜井章一氏
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それは変化に対する柔軟性に欠け、
「守る」という姿勢を基本にしているからだ。
相手の攻撃を受け、
防戦する状況にあるときは、
「守り」でなく「受け」
と考えるべきなのだ。
グローバリズムと愛国主義的な反グローバリズムの衝突はこれからも至るところで激しく起こってくるだろうが、
そのどちらでもない第三の道というものを現代人は意識して模索していく必要があると思う。
個人のあるべき基本的な生き方というものは、
世間や権力や流行など強い力を持ったメジャーなものに与せず、
自分というマイナー性に立脚すべきだと私は思っている。
by. 桜井章一氏
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そんなマイナー主義の感覚に依って立つスタンスこそ、
第三の道がいかなるものか、
その在り方を示唆してくれる気がする。
私が雀鬼と呼ばれるまで麻雀が強くなったのは、
「楽な道と険しい道があったら険しい道を選ぶ」
という性分があったおかげである。
険しい道を選択すれば、
辛いこともあるかもしれないが、
昨日の自分より確実に成長できるはずである。
だから私は常に「険しい道」
を選んで歩んできた。
by. 桜井章一氏
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困難も、壁も、
何も無いユートピアでは、
私は楽しさがきっと実感できず、
すぐに飽きてしまうことだろう。
私たちが暮らす現実の世界には、
善と悪の両方が存在する。
それが理想郷であるユートピアには
“善”だけが存在するのだろうが、
「善だけの社会」そして「善だけの人間」
というものをつくろうとしてもそれは不可能である。
自然で言えば、
天と地、昼と夜、乾季と雨季、
さらに生物で言えば男と女、オスとメス、
そして人間の内面で言えば善と悪や喜怒哀楽、
勝負の世界では勝ちと負け。
by. 桜井章一氏
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対極にあるふたつのものが存在することで、
この世の中はバランスを保ち、
成り立っている。
だからこの世の中には善だけの人間もいなければ、
悪だけの人間もいない。
善と悪、明と暗、
強さと弱さ、やさしさと怖さ、
そういった対極にあるもののバランスによって人間性というものは形づくられていく。
村人の中には魚を獲ることが誰よりも上手な人もいるだろうが、
そういった人は別に自慢もしないだろうし、
周りから”優秀である”というような評価も受けないだろう。
by. 桜井章一氏
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そしてその魚を分けてもらったほうも
「ありがとう」とは言わない。
そんな社会には、
私たちの社会で重要視される
“努力”も”向上心”も無い。
このような共同社会だと
“悪”の要素は限りなく少ない。
なぜなら、そんな社会には”善”
の要素も限りなく少ないからである。
by. 桜井章一氏
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分ける、与える、譲る。
そういった感覚が”善”
としてではなく、
当たり前に存在している社会には
“悪”も存在しない。
こういった原始的な社会こそが、
私の考える理想郷なのだ。
人間は誰もが”否定感”と
“肯定感”を持っている。
by. 桜井章一氏
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でも、人間関係を絶ち、
隠遁生活を送っている人は、
潔癖なまでに自分に都合の悪いことはすべて否定して生きているような気がする。
自分に都合の悪いことをすべて拒否していれば、
今の社会とかかわっていくことも当然いやになっていくだろう。
自分の外側にあるものに対する否定は、
必ず自分の否定となって返ってくるからだ。
ネットの影響も手伝って、
今の人は自分に対する評価の振れ幅が非常に大きい。
by. 桜井章一氏
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差別を受けるものがまた別の人間を差別する。
そこに差別をやってしまわざるをえない人間の救いようのない哀れな性を感じてしまう。
人間はどこまでも差別する本性を持ち続ける生き物なのだ。
なぜ差別するのか?
by. 桜井章一氏
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それは自分が差別する相手より優れた人間だと思いたいからだ。
そこで自分より下の人間をつくることで束の間の優越感を抱き、
今の立場を安全で確かなものにするわけだ。
このように差別意識と優劣の意識は密接につながっている。
その多様さは人と比べたときに差となって現れるわけだが、
その差を個性として認めるのではなく、
自分をより優位に導くために見下す対象とするのが差別だ。
by. 桜井章一氏
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そう思う私だって差別の意識はどこかに潜んでいる。
私が小学生のとき、
悪ふざけで下級生の足に障害のある女の子の歩き方をみんなの前で真似したことがある。
そのとき担任だったふだんはとても温厚で優しいアライ先生が、
血相を変えて私のところに飛んできて私のことを全身を震わせて激しく叱り、
頭にゲンコツを食らわせた。
その痛みは心に突き刺さり、
生意気だった私はその瞬間心底自分を恥じた。
by. 桜井章一氏
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アライ先生は私の中でいつまでも忘れられない存在として生きている。
差別は卑劣なものだということを身をもって学んだ貴重な体験である。
たとえば、理解しがたい異質な人を見たとき、
人は自分の存在が揺らぐような不安を覚えることがある。
その不安を取り除こうとして異質な相手を排除し、
差別するということがある。
by. 桜井章一氏
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