■我れ、悪党なり ~20年間無敗の雀鬼、日々を語る。~ -竹書房-
愛とは自然そのものである。自然は一瞬たりともとどまっていない。愛とは一方的に与えるものである。自然を忘れてしまった人は、愛をも忘れた人である
鬼どもが作り出す社会に住む我々には、
もはや善悪の物差しは見当たらなくなってしまった。
この地球の同胞でありながら、
そういう人間(一日ゴミを漁って暮らしを立てる家族、物乞いをして貧しい親の暮らしを手助けしている)を生み出す連鎖が存在するのだ。
九〇年ほど前に西側の文明を見て、
人間が求め作り上げるものの醜さや間違いを指摘した南の国の首長、
ツイアビ。
我輩もツイアビ首長の前では恥ずかしい人間だが、
せめて社会のてっぺんの悪人には背を向け、
邪悪な人込みの中にだけは身を置くまい。
by. 桜井章一氏
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我れ悪党で歩んで行きたい。
人間は、とくに現代人というやつは
「部分」にとらわれすぎる生き物だと俺は思っている。
ものごとのある一面だけをとらえて、
そこに執着してしまうのだ。
彼ら(野生の動物)にとっては本能と感覚だけが行動の基準となっているからだ。
by. 桜井章一氏
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だが世の中の多くの人は、
愛がもつ「永遠」という本質的な意味を誤解してしまっているのだ。
それは、
「愛は不変である、
いや変わらぬものでなくてはならない」
という誤解である。
愛とは決して不変なものではない。
それどころかまったく逆で、
刻一刻と姿を変えていくものだ。
by. 桜井章一氏

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そして相手の変化を「許せない」
と憤る気持ちは、
実は愛情からではなく相手への支配欲や依存心から起きているのである。
自分に忠実であってくれるはずの人間が、
そうでなくなったことにうろたえているに過ぎないのだ。
人に裏切られたと思う気持ち、
恨みつらみの感情は、
間違いなく人間を悪く変えていくだけである。
人を愛するがゆえに本人の人間性が悪くなっていく。
by. 桜井章一氏
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愛とは自然そのものである。
自然は常に形を変える。
自然は一瞬たりともとどまっていない。
常に流れながら形を変えている。
ただし自然がすなわち愛だというには、
もうひとつの要素を見落としてはいけない。
それは、絶えず変化を続けていながらも、
自然の本質自体は決して変わることがないという事実である。
by. 桜井章一氏
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荒れていようと穏やかだろうと、
風は風、海は海、
空は空なのである。
変化するものには、
本質そのものがコロコロ変わってしまうものもある。
いや、本質を持たないから変わり続けていくものがある。
経済活動には本質などない。
by. 桜井章一氏
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だからこそ愛とはかけ離れたものとなってしまうのだ。
みんなが夢中で追いかける流行というやつは、
決して自然の流れで動いているわけではない。
毎年毎年新製品を出すということは、
去年までのものは半製品だから捨ててくれと言っているようなものである。
現代は文明の発達した便利な時代だというが、
ひとたびその裏をのぞいてみれば、
空虚な変化、
悪循環を繰り返す、
愛のない時代であることがまざまざとわかるのだ。
by. 桜井章一氏
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人間関係ですら同様である。
自分が愛していると思い込んでいる相手は、
単に自分にとって便利な人、
利益をもたらしてくれる人でしかないのではないか。
愛とは一方的に与えるものである。
見返りを求める気持ちの混じった感情など、
決して愛ではない。
by. 桜井章一氏
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俺が愛そのものだと感じる自然はだれにも見返りなど求めない。
欲とも得とも関係なく、
風は流れ雨は降り注ぐのだ。
自然を忘れてしまった人は、
愛をも忘れた人である。
雨や風をうっとうしがる人は、
自分に利益をもたらさない他人だってうっとうしがっていることだろう。
by. 桜井章一氏
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日々刻々変わっていくのは自然も人間も同じである。
「変わらぬ愛」
を相手に押しつける人は、
愛することを知らない人だ。
自然が素晴らしいように、
愛のある人も素晴らしい。
愛ある人間になりたかったら、
愛に経済を持ち込むな。
by. 桜井章一氏
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そして自分に都合のよい一部分ではなく、
よいも悪いもきれいも汚いも含めた相手の全体を愛せるかどうか、
もう一度自分に問い直してみよう。
俺はいつも雀鬼会では心を込めて麻雀を打てと指導しているが、
世の中の麻雀ファンの大部分は
「心を込めて麻雀を打つだって、
バッカじゃねえの」
くらいの感想を持つのだろう。
そこで俺が
「麻雀は卓に着いてからいくら勝とうと思っても、
それではとても間に合うものではない。
まず普段の生活から勝ちに向かって……」
と答え始めると、
露骨な言い方でこそないものの、
まずほとんどの人間は
「そんなキレイゴトやタテマエはいいから、
手っとり早く勝てるテクニックを伝授してくれ」
と言ってくるのである。
by. 桜井章一氏
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スポーツであれ職人の世界であれ、
プロや一流を目指す人は、
常日頃から研鑽を積むのが当たり前だと俺は思う。
そして他の分野と同様に、
麻雀の道もまたそうだというのが俺の考えだ。
この社会では、
知識や情報を先取りできる立場にいる少数の人間が、
残る大半の人間の上に立っている。
そして麻雀は、
こうした競争社会の縮図であり、
勝ちの論理を体現するゲームとみなされているのである。
by. 桜井章一氏
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麻雀を打つ大多数の人の思いは
「麻雀で勝てるようになりたい」
だろう。
ところが実際に絶対に勝てる麻雀を経験した俺は、
まったく違う考えなのだ。
二〇年間の現役時代、
一度として負けたことのなかった勝負の道は、
決して俺を幸福な気持ちにさせるものではなかった。
俺の人生は強さを求める人生である。
by. 桜井章一氏
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だが、勝ちが続けば続くほど、
俺の心に次第に広がっていくのは、
なぜだかどうしようもない虚しさなのだ。
本質へ、本物の強さへ近づければ、
待っているのは真の「楽」
の境地であるはずではないか。
なのに実際は苦しみが募ってくるばかりなのだ。
そうしたもの(価値を貪る欲、政治経済的な論理)を取り除いていくと、
最後に残るものこそが本当の強さであり、
麻雀の本質なのだということが、
俺にもようやくわかってきたのである。
by. 桜井章一氏
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