■手ぶらで生きる術 ~忘れ上手は生き方上手~ -竹書房-
ちょっとのことが重なって人と人は繋がっているのです。だから「見て見ぬふり」はできない。目を反らすことに慣れると、自分自身すら見えなくなる。日頃からどう生きているかということなのです
善人ぶるわけじゃないけど、
私は「見て見ぬふり」とか、
本当はもっと余力があるのに適当に手を抜いて
「やったふり」とか、
そういう「ふりをすること」は、
ちょっとできないという性分です。
自分という存在が一つあったら、
その周辺には誰か手をかけて助けてくれる人が必ずいるものです。
とても小さなことかもしれませんが、
そこに「存在」があれば、
必ず誰かが手をかけてくれるものなのです。
一方でまた自分も誰かに手をかけている。
by. 桜井章一氏
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ちょっとのことが重なって人と人は繋がっているのです。
だから「見て見ぬふり」はできない。
外で困ってる人を見ても、
見ず知らずの人だから
「見て見ぬふり」ができる人は、
きっと自分の大事な人に対しても
「見て見ぬふり」ができる人でしょう。
目を反らすことに慣れると、
自分自身すら見えなくなる。
by. 桜井章一氏
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自分に対して「見て見ぬふり」
をしているとロクなことになりません。
たとえば客観的に見て100点中、
40点しかできていないのに、
80点やったと思い込んでいる人がいる。
そういうときは、
その人を責めても仕方ありません。
責めるよりも、
相手のレベルはこれくらいだと認知しておく。
by. 桜井章一氏

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まず「正直言って、他の人が見ると40点だよ」
と真実を伝える。
その上で
「でも60点なら、ちょっとここに気をつければすぐ取れるんじゃない?」
というふうに教えてあげるのです。
「60点取りなさい」
というのではなく、
60点取るための過程として
「こういうやり方あるんじゃない?」
というふうに教えることです。
「こういうものも一回ぐらい試してみたら?」とか、
その人が気づいてない方向を教えてあげる。
by. 桜井章一氏
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自分が勘違いしているときに、
そういうことを正直に言ってくれる人がいれば早く気づいて直すことができる。
打算が働いたり、
損得勘定が出てくると、
こんなことを言うと自分は嫌われるんじゃないか、
恨みを買うのではないかと思って
「あんた40点だよ」
とはとても言えないでしょう。
「哀」は自分というより、
周りが感じるものでもあります。
「怒り」の感情は、
みなさん持ちすぎるほど持っていますが、
それをどう表に出せばいいのか分からない人や、
下手な人が多い。
by. 桜井章一氏
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しかし、見過ごさない正義感や怒りを持つということは、
人としてとても大事なことなのです。
状況や相手によって対応は変わってくることだし、
こちら側の体力や気力によって変わってくることでしょう。
逆に言うと、
不意に訪れるそういう場面にも対応できるためには、
急ごしらえでは駄目だということです。
日頃からどう生きているかということなのです。
by. 桜井章一氏
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誰も怒ってくれなきゃ、
自分で自分を怒らなきゃいけないときもあります。
怒りの球があるんだけど、
直接その相手には当てられないから、
悔し紛れに下に向かって投げて気持ちを発散させる、
ということがある。
弱い存在に向かって当たっている人も多い。
よくあることですが、
それは汚いことです。
by. 桜井章一氏
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きちんと正面を向いていないということなのです。
怒りは溜めると「悩み」
になったりして、
ドツボにはまっていくこともあるし、
「ストレス」となって調子を崩すこともありますから、
表に出すということは大事なのですが、
その出し方は考えたほうがいい。
「この泣き方は汚い泣き方だな」
という場面や、
「ずるいな」というときもあれば、
「きれいな涙だな」
と思うときもある。
感情面だけ見て対応するのではなく、
それがどういう種類の出し方をしているものか、
敏感に感じ取ることも必要なんだと思います。
by. 桜井章一氏
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それが結果的に良いものになろうが悪いものになろうが、
自らの感覚で「知る」「分かる」
という経験は、
人間が生きていく上でとても大切なことなのです。
しかし、体験主義には落とし穴があります。
それは善悪の判断や、
自分でバランスをとっていかないと
「なんでもあり」
になってしまうということ。
良いことでも悪いことでも、
努力して経験していく行為は同じなのです。
by. 桜井章一氏
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そういうことが分かると、
「悪い経験を積んでいったほうが得かな」
と考えてしまう子もいるでしょう。
人は誰でも善と悪を持っています。
「善悪」といっても
「善悪を分別している」
という意味ではなく、
コインの裏表の話と同様に、
人というものは善と悪と、
どちらも持っているということです。
by. 桜井章一氏
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同じ体験をしても、
良いほうにいく人もいれば悪いほうにいく人もいる。
それはその人間の質の問題だけではなく、
運の問題や周りの状況など、
さまざまな力が絡まった複合的な要素で決まるものなので、
残念ながらこうすればよい、
という答えはありません。
「悪の体験」にも、
それを通してなにを受け取るかという質の問題があると思います。
できる者とできない者の相互関係の中で、
初めて「教え」というものがある。
by. 桜井章一氏
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だから、どちらが偉いということではなくて、
五分のものだと私は思います。
その関係性の中で、
それぞれの立場から「教える喜び」
「教えられる楽しみ」、
もしくは「伝える喜び」
「伝えられる楽しみ」
を感じてその喜びが二つ重なり合うのが、
一番いい形ではないでしょうか。
こうした「教える」「教えられる」
の関係に限らず、
どんな関係でも基本は五分と五分だと思います。
by. 桜井章一氏
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道場生やm
長年付き合いのある人たち……。
「ご馳走さま」は誰に言ったかというと、
つまりその人たちに向かって言っていた。
「あなたたちのお陰で食べられました」と、
本当に心から思っていました。
そして
「このたった一食すらも、
俺はてめぇの力で食べれてないんだよな」
とも思う。
by. 桜井章一氏
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決して自分一人の力で生きているわけではないんだと。
でも、そこで自分の感性はちゃんとした方向に行っていると安心しました。
「俺は努力してきたんだ。
食えるのは当たり前だろう」
「働いてるんだもん、
稼いでるんだもん、
感謝するべきは自分に対してだ」
なんて間違えた感性を持っていると、
ご飯が美味しくなるわけがないのです。
by. 桜井章一氏
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そういう「感謝」の気持ちを持つことは宗教的でもないし、
マナーでもない。
誰かの教えでもないし、
学びでもないと思う。
「みんなに食べさせてもらったんだな」
という「ありがたさ」とか「感謝」
というものは、
自然と沸き起こるものです。
このような「感謝」
の気持ちがあれば、
人はみんな五分と五分の関係になるのです。
by. 桜井章一氏
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