■桜井章一の折れない心のつくり方 -ぱる出版-
「いい揺れ」を目指さず、「悪い揺れ」をなくす。遊びの感覚をもって牌を打ち、未知の感覚を発見する喜びを重ねていくうちに、自然と麻雀を起用に打てるようになっただけだ
もっとも正確にいえば、
心がまったく揺れないという状態はない。
まったく変化することもなく、
動かない心は、
生きた人間であればありえない。
結局のところ、
心はどんな揺れ方をするかが問題なのだ。
つまり、良い揺れ方をしているか、
悪い揺れ方をしているか、
ということだ。
by. 桜井章一氏
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いい揺れ方をし、いい変化をし、
いい動きをしていれば、
それこそが「揺れない心」
と呼べるのである。
揺れない心のイメージとは、
たとえば風で葉や枝を揺らしながらも、
太い幹は微動だにしない大木のようなものだ。
いい揺れ方をしている心は接してくる周りの人を落ち着かせてくれる効果を持っている。
片や悪い揺れをしている心はすぐにわかる。
by. 桜井章一氏
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激しく上にいったり下にいったり。
何かに強くとらわれてリズムがおかしくなったり。
そんな心を揺らしすぎた人が今の社会は異常に増えていると思う。
心の悪い揺れは伝播していくから本当に気をつけないといけない。
by. 桜井章一氏
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「揺れない心」というものは、
そうなろうと思うとなかなかできなかったりする。
逆に悪い揺れをなくそうとすることから入っていったほうが、
揺れない心には近づけると思う。
「いい揺れ」を目指さず、
「悪い揺れ」をなくす。
その姿勢が結果的に「揺れない心」
を持続させるのだ。
by. 桜井章一氏
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もっとも人の心は無限に耐えられるわけではない。
心が耐えうる許容範囲を超えてしまう圧力がかかれば、
当然心は折れてしまう。
心もそれ(頑丈な金属の板)と同じで、
ここまでだったら耐えられるけど、
それ以上は耐えられないよとあらかじめ思っていたほうがいい。
そんな構えでいるほうが、
意外と圧力に対しても柔らかく対応でき、
ただ耐えるだけでない
“しなやかな強さ”
のようなものが出てくるものだ。
by. 桜井章一氏
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たとえば、100ある圧力のうち、
70は耐えるけど、
もう30がきたらそこは耐えないよという感じだ。
最初から気張って100全部を耐えてやろうとすれば、
力が入りすぎて”硬く”なってしまう。
そのため、かえってさほど圧力がかかっていない段階でも耐えきれず、
折れてしまったりする。
どんなものでも、
ものごとには加減が必要だ。
by. 桜井章一氏
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全部を白にしようとか全部を黒にしようとすることは危険を招く。
全部をどうにかしようという感覚は恐いのである。
これは、何か望むものがあってその目標を達成するために我慢するというふうに使われる。
「耐える」は辛いことが通りすぎるのを待つまで身を縮めてじっとしているというイメージだが、
「我慢する」は欲しい物が手に入るまで禁欲的に頑張るというイメージがある。
by. 桜井章一氏
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我慢という行為をプラスのものと信じることで、
我慢を重ねていくなかに自分の存在感を感じるというおかしな喜びも生まれてくる。
しかし、我慢を通して自分の存在を確認することにはどこかいびつなものがある。
我慢を核に精神が形成されていくのは、
あまりよいことではない。
我慢したところで報われないことはいくらでもあるし、
我慢という苦痛を介さなければ何か大事なものが得られないと思い込むのは、
その人の人生にとって損なことだ。
by. 桜井章一氏
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我慢しなくたって、
楽しく工夫することで目標を達成したり、
何かを得たりすることはいくらでも可能だからだ。
私はこれまでの人生で耐えなければいけないという局面はたくさんあったが、
目標を達成したり、
報酬を得たりするために我慢することがほとんどなかったように思う。
洗面器につけている顔をあげる勝負というのは、
どちらが耐えられるか、
苦しくなって耐えきれなくなったほうが負けてしまうようなギリギリの勝負のことである。
ところが、実際には私のなかに我慢という感覚はほとんどなかったのである。
by. 桜井章一氏
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食欲を満たし、
ぬくぬくと暖かい布団にもぐって心地よく眠ってしまえば、
勝負に必要な本能的な感覚が鈍ってしまう。
そんなことを体は無意識のうちに察知していたのだと思う。
体をぎりぎりの状態におくことで、
本能を開き、
それを極限まで鋭く研ぎ澄ます。
理屈でそう考えていたわけではない。
by. 桜井章一氏
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あくまで勝負師としての本能がそうさせただけなのだ。
遊びの感覚をもって牌を打ち、
未知の感覚を発見する喜びを重ねていくうちに、
自然と麻雀を起用に打てるようになっただけだ。
だから私の麻雀人生においては、
「耐える」ことはあっても、
「我慢」はなかった。
そもそも私は目標というものを前に掲げ、
頑張って努力することとは無縁の生き方をしてきた。
by. 桜井章一氏
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その意味で、我慢しなくてもよい生き方を私は最初から選択していたといえるのかもしれない。
人の悩みというのは、
傍から見れば「たいしたものじゃないな」
と思えるものも少なくない。
だが、悩んでいる対象に気持ちがとらわれすぎると、
なおさら苦境に陥ったりするものだ。
それにしても、
同じような悩みでもいつまでも引きずる人もいれば、
一方で気持ちを早めに切り替え悩みをさっさと解消してしまう人がいるのはなぜなのか?
by. 桜井章一氏
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その違いはふだんの思考の習慣が大きく影響していると思う。
たとえば、悩みをいつまでも引きずるタイプは、
自分はこうあるべきだとか、
こうすべきだといった理想が高いことが多い。
理想が高いゆえに、
「~であるべき」「~すべき」
という思考のクセがついている。
だが、このような思考のクセは、
その人から柔軟性を奪い、
悩みをさらに深める原因になったりする。
by. 桜井章一氏
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そう(強い絶望、深刻なほど落ち込む)ならずに済んだのは
「風」に動かされて生きてきたからだと思う。
もっとも「風」とはいったいなんなんですか?
と問われても、
正しくこうだと答えることはできない。
あえていえば、自然の感覚に自分をゆだねたときに生まれてくる
“流れ”のようなものだろうか。
そんな風まかせの生き方をしてきたために、
辛いことがあっても
「こうでなくてはいけない」
と思って力んでカラ回りしたり、
「本当はこうすべきなのに俺はしなかった。
ダメな人間だ……」
と悔やんだりせずに済んだのだと思う。
by. 桜井章一氏
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