■我れ、悪党なり ~20年間無敗の雀鬼、日々を語る。~ -竹書房-
勝負づけ、勝負の本質というものは、力学など人間の知識の追求とはまた別のところに存在しているような気もする
「本物の力とは、見えぬものなり」
なのです。
麻雀において力強く打てるということは、
勝つためには絶対に必要な要素である。
人間というものは、
わからないものや未知のものと遭遇したり、
どうにかして勝ちたいという欲が強すぎたりすると、
どうしても心と行動に力が入ってしまう。
俺から見れば、
そんなものは無用の長物以外の何者でもない。
by. 桜井章一氏
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力を入れた状態では、
人間は必ず支点が残ってしまうものだ。
見る者が見れば、
その支点がすべてスキとして映ってしまうのである。
牌に描かれている絵柄は、
男のツラと同じである。
人さまのツラをいちいちゴシゴシこすっていては、
命がいくつあっても足りないだろう。
by. 桜井章一氏
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盲牌とはそんな無礼な行為なのである。
牌をツモる動作は、
力を極力抜いて柔らかく行う。
そして山から自分の手牌の横まで、
ツモ牌は最短距離をいわば低空飛行で持ってくる。
次に身体のどこにも支点を残すことなく、
再びそのまんまの動作で低い軌道を描いて、
捨て牌を河へ滑らせるように切り出すのである。
by. 桜井章一氏

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牌をツモる時には脇を締める。
脇が開いていては動線が乱れてしまう。
牌をツモって切る動作は、
直線的に最短距離をとることで自分のムダな部分が消え、
自分の状態がしっかりとつかめるようになる。
上家の動作にムダがなくスムーズだと下家も打ちやすい状態になり、
結果として四者の麻雀が生き生きしてくるのである。
そんなふうに打つことで、
卓上にはリズム感が生まれる。
by. 桜井章一氏
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弱気や迷いという支点を、
テクニックでどうにか埋めようなんていう打ち手には、
麻雀の持つ「流れ」
を実感することは決してできまい。
支点を残すことなく、
風や水のような自然の流れにまかせて打てる麻雀こそ、
最強の麻雀だと俺は思っている。
「動でも静でもなく流れ」
なのである。
人間に闘おうという気持ちが起きれば、
自ずと相手の力量に敗けまいとして、
身体や心に必要以上の力が加わってしまうものだ。
by. 桜井章一氏
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人は恐怖や不安から逃れるために、
力ずくで解決しようとするのだが、
ホイス選手は出会い頭の組み合いにおいて見事に脱力をなしているのである。
俺はこの引き技というものにあまり感心できない。
そうではなくて
「力を入れてダメなら抜いてみな」
という方が、
勝負の本質に通じる言葉なのではないかと思う。
その感覚をもっと深めると、
のしかかられた相手が俺を撥ね飛ばそう、
逃れようと力を入れれば入れるほど、
その力は俺に向かわず自分の身に加わってしまう。
by. 桜井章一氏
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そうなると自分の力で自分を攻める状態に入り込み、
俺の身体が相手の身体と同化してしまう感覚になってしまうのだ。
俺が脱力したことで相手の力が抜けてしまうのだ。
だがそういった「巧い」
打ち方をする人も、
用心はするもののそれに執着してしまうことなく、
力一杯強引に攻めてくる攻撃麻雀の前では、
慎重すぎるあまり自分の出番をなくして後れを取ることになり、
「巧者、強者に敗れる」の型となる。
どちらにしても、
俺と打てば打つほど泥沼に足を取られた感じで、
普段と比べて牌が充分に動かせなくなってしまったと、
敗者の一人から俺は聞かされたことがある。
by. 桜井章一氏
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俺から見れば、
相手が逃げようとしても捕まえられるし、
反対にかかってくれば打ち倒せる状態となり、
次第に麻雀をたった一人で打ちたいように打てる状況になっていたのである。
勝負づけ、
勝負の本質というものは、
力学など人間の知識の追求とはまた別のところに存在しているような気もする。
人間の身体も麻雀も、
調和を保つことがとても大切である。
人間はここぞという場面では、
放っておいても心身に力がはいってしまう。
by. 桜井章一氏
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俺の体験から言っても、
まず全身に力を目一杯入れ、
そこから身体の力をスーッと抜くと、
普段より倍加した「力が抜けた力」
が出るものである。
無力と脱力はまったく違うものなのである。
無力とは元々力が絶対的に不足した状態で、
脱力というのは力強い力を通り越したところに存在するものだ。
巌のような力が砕けて、
砂のようなサラサラとした状態になったようなものである。
by. 桜井章一氏
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積み重ねの力ではなく、
動でもなく静でもない、
流れのような力。
それが脱力なのだ。
いってみれば、
脱力とは人間が編み出した人工的な力ではなく、
自然そのものに近い力のことなのです。
人間は自然の力には決してかなわない。
by. 桜井章一氏
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人の心が病んでくれば、
邪念にとらわれて真実ではないものを真実と信じ込んでしまったり、
方向性を見失って自ら歩むことを忘れてしまい、
自分そのものを他人にゆだねてしまうようになる。
そして、社会全般が病んだ姿を現しているのだ。
自立した行動や思考をすることができる者が知恵のある者だとするならば、
きょうびの人々は知識や情報に侵されてしまった、
動きの鈍い、
肥満化した生き物に過ぎない。
自分たちがそういう状態に置かれていることにさえ気づかないことが、
もうすでに心の病に侵されているということなのです。
by. 桜井章一氏
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知識や情報に頼らず、
心の目で何が正しいのか少しでも真実を見極める勇気を持たなければ、
人の世は病に侵され、
次第次第に狂の時代に突入してしまうのです。
子どもたちが通る道である教育の場や家庭においてすら、
その本来の姿はすでに失われており、
洗脳されてしまった人々によって、
長い間「数」を価値とする競争の論理が善とされてきた。
妄想の世界からは虚無感が生み出されるだけで、
麻雀とはなんぞやという、
真の姿を伝え導こうとする姿はまったく浮かび上がっては来ない。
人の世に病が少なければ、
人は妄想というものに寄りつくこともないだろうが、
今のように多くの人の心が病に陥ると、
真実のあり方を追うよりは妄想の世界に浸りきる方が当たり前となっている。
by. 桜井章一氏
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俺はそれにも、
生きとし生けるものとしての不自然さを感じ取っている。
俺から見れば、
そういった洗脳力は宗教に限らず、
多かれ少なかれどこの世界にも存在するような気がする。
困ったことに、
そういうものが夢や希望や進歩や向上、
目的意識といったものに擬せられているものだから、
つい見落としがちになってしまう。
俺にしたって、
自分の生活の領域の中で少しでも真実を知ろう、
近づこうと捜し求めてきたものだが、
あっちを向いてもこっちを向いても妄想の世界ばかりが目につき、
「人の世はしょせん幻なのか」
と思いつつあった。
by. 桜井章一氏
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俺も取材を受けることのある人間として知っているのは、
多くの場合、
取材者は真実を導き出そうと努力するのではなく、
自分たちが求める妄想の世界に相手を当てはめることに腐心しているだけということである。
彼らはそれこそが夢であり、
読者や視聴者が夢や希望をふくらませることになるのだと、
自分たちの行為を正当化している。
情報や知識などに洗脳されてしまっている多くの人たちに末期的なものを感じ取る。
by. 桜井章一氏
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