■諦める技術 伝説の勝負師が極めた強さの本質 -ポプラ社-
求めているのは満足感ではなく、納得感だ。自分を誤魔化すくらいなら自分をさらけだして生きていたいのである
私は常々、
「夢は大きく持たずに小さく持て」
と言っている。
夢は小さいほどいい。
言い換えれば、
それは大きな夢は持たず、
やれば出来るという具体的な目標を持つことである。
10しかないのであれば、
15とか20くらいの目標を持つといいのである。
by. 桜井章一氏
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ただ、捨てたからといって完全に忘れるのではなく、
心の奥の奥にしまっておくのである。
行動を起こせば近いところにある小さな目標はすぐに達成してしまうだろう。
最初の目標を達成すればまた次の小さな目標を立てる。
目標は「前に」置くものだと思うかもしれないが、
私は「横に」それを置くといいと思っている。
by. 桜井章一氏
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横に置いてそれと併走する感覚でいれば、
リアルな目標を設定できるからだ。
また前に目標を置くとついつい前のめりになって視界が狭くなる。
視界が狭くなれば余裕がなくなり、
目標設定や目標へのルートの修正が必要なときにそれができなくなってしまう。
「目標を達成するにはこのやり方より、こっちの方法でいったほうがいいな」
とか
「これにプラスして別の目標をくっつけるとよさそうだな」
といったことをリアルに感じることができるのだ。
by. 桜井章一氏
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そうやって目標を脇に置いて一歩一歩着実に前に進んでいけば、
大きな夢が現実味を帯びるときがきっとやってくるはずだ。
本当のプロは「プロでありつつアマチュア」の人。
「プロ」の枠にとどまって甘んじるな。
だが、私はあえて、
プロフェッショナルなんか目指すなと言いたい。
プロかアマかという、
「肩書き」としてのプロフェッショナルにこだわることなく、
プロレベルの仕事をこなし続ける人が、
本当のプロだ。
by. 桜井章一氏
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プロフェッショナルに徹してその枠を超えてしまった人、
つまり、そこからアマチュアの感覚に戻ってきた人こそが一流ではないだろうか。
つまり、同じプロフェッショナルでもプロであることへのこだわりを捨てられるかどうかが、
その先に行けるか否かを決めるのだろう。
いま私の中にあるのは、
アマチュアの感覚である。
プロというのが専門家のことを指すなら自分はずっとアマチュアでいい。
by. 桜井章一氏
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そして専門を否定するアマチュアのプロこそ、
プロを超える一流の存在になれるのである。
専門家であることに自足しているプロを、
私は信用できない。
自分の専門を否定できるアマチュアのプロは、
仕事に対して満足感でなく納得感を求めると思う。
いい仕事ができたか?
いい勝負ができたか?
by. 桜井章一氏
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そんな問いを自らの中で繰り返しているのがホンモノのプロだ。
そのとき、満足してしまえばそこで成長が止まってしまう。
求めているのは満足感ではなく、
納得感だ。
納得感があればそれを足場に次に向かうことができる。
by. 桜井章一氏
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もしくは納得感すらチャラにしてまっさらなゼロの状態からまた始める。
そうやって進化し続けるのがプロを超えたアマチュアのプロだと思う。
むしろへんなプロ意識を捨てアマチュアに徹する感覚で仕事に向かったほうが、
間違いなくその人の伸びしろは大きくなると思う。
「どう判断されるかは人次第」と腹をくくれ。
by. 桜井章一氏
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ダメな部分を見せても、意外と受け入れられるもの。
たしかに状況や対人関係に応じた役割意識は、
いまのような複雑化した社会においては欠かせないものになっていると思う。
だが、私自身はなるべくなら「素」
で生きたほうがいいと思っている。
素になれば楽だし、
気分よく生きていけるからだ。
by. 桜井章一氏
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それは素になったらバカにされるのではないか、
認めてもらえないんじゃないか、
そんな恐れにも似た気持ちを抱くからだと思う。
私の場合は自分のダメな部分、
弱さがあれば、
それを公表したくなる。
世間では勝負師というイメージがあるので
「強い人間」「できる人間」
と思われているかもしれないが、
ふだんは小さな失敗はいくらでもする。
自分のダメな部分、
弱さを公表したくなるのは、
強がって自分を誤魔化したり、
正当化したりするのが嫌いなだけなのだ。
by. 桜井章一氏
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自分を誤魔化すくらいなら自分をさらけだして生きていたいのである。
褒められるくらいなら自分の愚かさを出すほうが自分らしくていいやと思ってしまう。
素で生きるにはまず自分を等身大でとらえることである。
この編集者が言う
「少しでも他人に自分をよく見せよう」
というところに、
素になかなかなれない理由がまさにあるのだが、
それは社会や人が強く求めるものがどんどん高価なものになっているからに他ならない。
by. 桜井章一氏
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高価というのはもちろん高級なもののことではなく、
能力が高いことや人間的に優れているということである。
そんな風潮にあれば自分のダメなところを見せるのはなおさら勇気の要ることになる。
だが、人から見える自分のイメージをよくすることばかりに囚われないで、
「どう見られたっていいや」
「どう思われたっていいや」
という気持ちも一方に持っていればいいと思う。
それは自分という存在を人から認めてもらいたいという本能なのかもしれない。
by. 桜井章一氏
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求愛や争いの場において、
自分の存在を効果的にアピールしたり、
オスがメスよりも派手だったりするのも、
「自分を認めてほしい」
という本能の証といえる。
だが、人間の場合は
「自分を見せる」ことが、
往々にして”よく見せすぎる”
というレベルまでいってしまうところに問題がある。
それとは反対に、
仕事が本当にできる人は自分のバカなところを見せる余裕があるものだ。
最終的にはすっぴんになって
「どう判断するかは人次第」
と思っていればいいと私は思う。
by. 桜井章一氏
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自分は自分なんだから、
人が自分をどう思おうと、
どう見ようとかまわないのだ。
私がすっぴんになれるのは、
「本音を言って嫌われるのであればそれはそれでいいや」
という気持ちもあるからだ。
空気をあえて読まない。
それが自分らしい生き方になる。
たしかに空気を読むことは大事だが、
空気を読みすぎると今度はマイナスの要素も増えてくる。
周りに配慮しすぎて自分の意見を出せなかったり、
長所となる個性を抑えてしまうからだ。
創造的な仕事をしたり、
よくない制度や慣習を変えるには、
「空気をあえて読まない」ことも大切なのだ。
by. 桜井章一氏
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