選ぶセンスの無い人たちは、そういった常識や価値観を「当たり前」のこととして受け入れてしまっている。そのようなものが本当に自分らしい生き方をする上でプラスになっているか、まずそのことを疑ってみるといい

■究極の選択 -集英社-

選ぶセンスの無い人たちは、そういった常識や価値観を「当たり前」のこととして受け入れてしまっている。そのようなものが本当に自分らしい生き方をする上でプラスになっているか、まずそのことを疑ってみるといい

いじめは往々にして、
集団や仲間の中で目立った存在、
はみ出した異質な存在感を持った者に対して向けられる。

マイナスではなくいいほうにはみ出していてもいじめの対象になったりする。

つまり、いじめる側はそうした人が自分たちの集団や仲間の安定した秩序を揺るがしかねない者ととらえ、
排除することで安心感を得たいという気持ちがあるのだ。

いじめられる側は
「お前らみたいな偏狭な人間は相手にしないよ」
とできる限り無視していれば、
いじめ甲斐が無くなってそのうちやらなくなる可能性がある。


by. 桜井章一氏

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もっとも追い詰められた精神状態にある人は余裕が無くなり視野が狭くなっているため、
何がベターな選択肢なのか探すことも、
見つけることも、
選ぶこともできなくなっている。

ただ、私には最近の人たちはそういった余裕だけでなく、
“選ぶ力”そのものが弱くなってしまっているように思えて仕方ない。

しかし、ネット全盛の現代社会において必要とされているのは
“知恵”ではなく、
“知識”であり”情報”である。

現代社会に生きる人たちは、
たくさんの”知識”や”情報”を持っているが、
あまりにたくさんの知識や情報を持ちすぎているために、
「その中から何を選んだらいいのか」
がわからなくなってしまっている。


by. 桜井章一氏

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ふたつの中からひとつを選べと言われたら、
誰でもすぐにできるだろうが、
「一〇〇個の中からひとつ選びなさい」
と言われたらそれなりに時間がかかる。

ましてやその数が一〇〇〇個、
一万個となったら、
もはや選ぶことなど不可能だ。

現代社会はまさに選択するという行為において
“お手上げ状態”になっているように感じる。

私がかつて勝負の世界に生きていたとき、
これはすごい打ち手だなと思った相手がひとりいた。


by. 桜井章一氏

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その打ち手は光速と言ってもいいほどのスピードで鮮やかに牌を回していくのだが、
打って拾うという瞬間、
瞬間の選択が一分の狂いもなく見事なのだ。

それは自らの生き方においても粋な選択を重ねてきたんだろうなとつい思わせてしまうほどのものだった。

選ぶのが下手ということは、
「選ぶセンスが無い」
ということである。

選ぶセンスが無いと、
いくら便利な世の中になったとはいえ、
正しい答えを得ることは難しいだろう。


by. 桜井章一氏

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選ぶセンスが身に付いたあとは、
「その情報を受け入れるのか、
受け入れないのか」
を自分で判断すればいい。

そして、
「みんなが受け入れているから私も受け入れよう」
ではなく、
取捨選択をしっかり行い、
「これだけは受け入れることができない」
という、
自分の”芯”のようなものを持つことも大切だ。

これは麻雀も人生も同じである。

選ぶセンスの無い人たちは、
そういった常識や価値観を
「当たり前」のこととして受け入れてしまっている。


by. 桜井章一氏

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そのようなものが本当に自分らしい生き方をする上でプラスになっているか、
まずそのことを疑ってみるといい。

社会構造の上にいる者たちは、
知識や情報の中に実に巧みに下の者たちを操るための細工を仕掛けている。

その細工が”世の中の常識”や
“社会システム”、
あるいは”教育”や”会社の方針”
といったものに潜んでいるのである。

そして、世の中で当たり前とされている常識やよいと思われている価値観、
さらには高尚とされているものなど
“よさそうに見えるもの
ほど疑ってかかるのだ。


by. 桜井章一氏

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いじめられる側がそんな足場を持っていれば、
いじめに対してどこか余裕を持てるはずだ。

そしていじめに対して逃げることも含めてどんな対応が効果的なのか、
比較的冷静に判断できると思う。

道徳が登場する以前の”道徳心”は、
儒教や仏教、
キリスト教などの宗教が
「人としての正しい行い」
を説いていたのだと思う。

仏教もキリスト教も、
その後の長い歴史の中でいろんな改変が加えられ、
さまざまな宗派に分派し、
その時代、その時代の人々に受け入れられやすいように変化してきた。


by. 桜井章一氏

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そのような宗教の変遷を辿っていくと、
宗教は神や仏を商品にしたひとつの
“商売”のようなものであることがよくわかる。

今、義務教育の中で取り入れられている”道徳”も、
結局は宗教と同じひとつの”商売”の形である。

道徳を義務教育の正式な授業として取り入れるということは、
国を挙げてひとつの”思想”を”道徳”
という形に変えて広めようとしているわけだ。

知識や情報が重要視される現代は、
“思想”も高尚なものとして受け取られがちだが、
そんな「いいもの」にこそ、
私たちは疑いの目を持って接しないといけない。


by. 桜井章一氏

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■八割できなくても幸せになれる ~いまを無邪気に生きる術~ -竹書房- 期待する気持ちは、心に病を生む。期待は「誤りの道」に続いていま...

近年の独裁者と言えば、
北朝鮮の金正恩が真っ先に挙げられるが、
私たちの暮らすここ日本にも危ない思想を持った政治家はたくさんいる。

そのことを忘れてはいけない。

それゆえ、道徳を絶対善と思い込んでいる人は周りにいる人と必ず何らかの軋轢を生じさせたりする。

人は抑圧的なものに対しては本能的に反抗する衝動を持つからだ。


by. 桜井章一氏

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このように道徳的啓蒙は、
往々にして人が本来持っている自由を侵すものなのである。

道徳というフレームではなく、
人として何が普遍的に大切なのか、
人は本來どうあったほうがいいのか、
そういったことを自分の体験を踏まえて考えていけば、
おのずと人や社会に対するより好ましい振る舞いが身に付いていくと思う。

今、街を行く大人たちを見ていると
“恥”の概念がだいぶ薄れてしまったことを痛感するが、
それでもまだ、
日本には
「やりたい放題で振る舞っていたら恥ずかしい」
「人に迷惑をかけても平気な顔をしているのは恥ずかしい」
といった”恥”の文化が細々とだが息づいている。

もっとも、この恥の文化は日本がムラ社会であることが大きく影響している。


by. 桜井章一氏

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「旅の恥はかき捨て」
という言葉があるのは、
ムラ的な共同社会の外に出れば恥も捨てられるという心理なのだ。

そう考えると日本人が持っている恥の意識が、
本当の徳と言えるかはちょっと怪しい部分はある。

人は、どうしたって何かに迷惑をかけなければ生きていけない生き物である。

迷惑をかけない人間などこの世にはひとりもいない。


by. 桜井章一氏

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であるならば
「人様に迷惑をかけるな」ではなく、
「迷惑はかけちゃうけど、
お互いにあまり迷惑をかけすぎないように気をつけていこうね」
と教えるべきだ。

道徳的なことを子どもたちに教えるとすれば、
わざわざ授業などに持ち込まなくても、
大人たちがちょっと工夫をして子どもたちと接すれば、
「人としてどのように振る舞えばいいのか」
を教えることはいいくらでもできる。

それよりは、
子どもがひきょうなこと、
ずるいことをしたときに
「ひきょうって何だろう?」とか
「ずるいってどういうことだろう?」
「何でウソをついちゃうんだろう?」
と一緒に考えるのだ。

ずるいことをした子どもに対し
「お前は何てずるいやつなんだ!」
と一方的に叱り付けるだけではまったく意味がない。


by. 桜井章一氏

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「私もそういうずるいところがあるよ。
何で人間はそういうずるいことをしちゃうんだろうね?」
と子どもに問いかければ、
子どもは
「あ、大人にもそういうところがあるんだ」
と気が楽になり、
心も開くだろうし、
心がオープンになれば素直に
「何がダメで、何がいいことなのか」
も受け入れてくれる。

でもそんな(”上から目線”になりがち)とき、
ひとつの答えを上からポトンと落とすのではなく、
子どもと同じ目線で、
一緒に「どうしてなんだろう?」
「何でだろう?」
と考えることが大切なのだ。

でも、それらが平然と無視されるのはそんな連中にとって道徳が知識に過ぎないし、
また無意識に反抗の対象でもあるからだろう。

詰まるところ、
道徳的な感覚は、
その意味を身をもって体験しないと生きてこないということだ。


by. 桜井章一氏

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形式ばった上から目線の道徳の授業などいらない。

それよりは道徳から外れた振る舞いを身近なところで感じるような体験を意識的にしてもらうことだ。

確かに雀鬼会のルールは勝ち負けを超えた次元でみなが気持ちのいい麻雀が打てるようにつくったものだ。

道徳が気持ちよく暮らせる社会をつくることを目的としているなら、
雀鬼会のルールもそれと似ているところはある。

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道徳が気持ちよく暮らせる社会をつくることを目的としているなら、
雀鬼会のルールもそれと似ているところはある。

だが、決定的に違うのは、
道徳は現実に風通しのよい生きやすい社会を必ずしもつくらないが、
雀鬼会のルールは参加者全員が麻雀を気持ちよく楽しむための役割を果たしているという点だ。

nbsp;
by. 桜井章一氏

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