■究極の選択 -集英社-
執着を省くことで動きに無駄が無くなり、思考も動作もやわらかくなっていく。どんなに修行しようが、徳を積もうが、人は欲や執着心から離れることができない
救助ボートには残りひとりしか乗れないが、
あなたともうひとり、
乗れない人がいる。
この場合、
私は相手の年齢性別にかかわらず、
「どうぞお乗りください」
と言うかもしれない。
私が若かったら
「俺はボートに乗らなくても生き残ってやる」
と思うだろうし、
齢を重ねた今、
そのような状況になったら
「病院ではなく、
大好きな海で死ぬことができる」
「自然から生まれ、
自然に帰っていくことができる」
と感謝の心すら湧いてくると思う。
なぜなら歩けない人を背負って何百段とある階段を降りようとすれば、
あまりにも時間がかかってしまい、
炎と煙に巻き込まれてしまう。
by. 桜井章一氏
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結果的にふたりとも確実に死んでしまう。
若いときの私なら、
そんな状況のとき、
心を鬼にしてひとりで階段を駆け降りたかもしれない。
でも、老いた今の私なら、
身動きができなくなった人と覚悟を決めて炎と煙が迫ってくるのを待つだろう。
極悪非道な独裁者が消えたのはいいが、
いなくなることによって、
さらに悪い結果がもたらされているのである。
by. 桜井章一氏
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だから、質問にあるようにただ悪い独裁者を殺せば問題は解決するというものではない。
そう考えるので、
私は独裁者を狙い打つミサイルの発射ボタンを目の前にしても、
きっと押すことはない。
ミサイルなど使わず、
どうにか単独で相手を始末できるような手段を考え、
綿密な計画を練るだろう。
どんなに緻密で周到な警護体制を取ったとしても、
人間のつくったものだから必ずどこかに隙がある。
by. 桜井章一氏

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独裁者は傍から見ると傍若無人な振る舞いで強そうに見えるものだが、
実はいつも怯えて過ごしている。
その(処刑)数は先代の金正日の時代とは比べ物にならないほど多いというから、
彼がいかに周囲の動きに神経質になっているのかがわかる。
いつの時代も、
権力を手中にした独裁者は暗殺や造反を恐れ、
周囲の動きにとても敏感になる。
だが、この
「勝者を生け贄にする」
というやり方こそ、
当時の権力者が編み出した狡猾な戦略と言えよう。
by. 桜井章一氏
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だから生け贄になることを
“最大の名誉”として称え、
強靭な肉体と精神を持つ有能な若者を生け贄として次々と殺していったのだろう。
自爆する信者たちは聖戦(ジハード)によって永遠の天国に行けると信じている。
だから彼らは死ぬことにまったく躊躇がない。
人々に平穏と安らぎをもたらしてくれるはずの宗教がなぜ争いの中心にあるのか。
by. 桜井章一氏
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私はここに宗教の本質を見る思いである。
でも、死と隣り合わせだからこそ見えてくる世界というものがある。
極限の状態に置かれると、
人間の感覚は研ぎ澄まされ、
見えないものが見えてきたりすることがあるのだ。
ふだんの生活では決して味わえない、
生と死の狭間でだけ実感できる”生”
を彼らは楽しんでいるのである。
by. 桜井章一氏
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私は、死ぬかもしれない危険にあえて身をさらすのが好きだった。
体を存分に動かし、
生命をフルに使って生きるということが押さえつけられている環境だからこそ、
そうしたものへの反発と生の実感を回復したいという
“飢え”のようなものを持つ人が少なくないのではないか。
もちろん自然界の生き物は命をひどい危険にさらしてわざわざスリルを味わったりはしない。
その意味では愚かと言えば愚かな行為かもしれない。
by. 桜井章一氏
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私が命令を受けた兵士だったら上官に対し、
「捕虜は殺せません、
代わりに自分を殺してください」
ともしかしたら言うかもしれない。
実際に人と人が殺し合う”戦地”は、
今私たちがいる”通常の社会”
とはまったく別の世界である。
そんな北朝鮮を見て
「あの国は狂っている」とか
「あの国に常識は通用しない」
と言っている人をよく見かけるが、
北朝鮮は朝鮮戦争以降、
言ってみればずっと「戦時下」
なのだから、
私たちの常識が通じるわけがない。
いったん戦争となれば、
社会の常識も、
法律も意味をなさない。
by. 桜井章一氏
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こちらにはこちらの、
敵には敵の”正義”があるだけだ。
眠った際に見る「夢」が、
身の回りに起こっている問題を何かのシグナルとして教えてくれている可能性はある。
夢を夢としてそのままにするのではなく、
「あの夢は何を意味していたんだろう」
と思いを巡らせることは、
自分の深層心理からこれから起こること、
または今後の対応などを考えていく上でとても大切なことである。
万物の生きとし生けるものを貫く広大な生命そのものを荘子は蝶になって直感した。
by. 桜井章一氏
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その「大きな生命」が人間になったり、
蝶になったり、
魚になったり、
鳥になったりする。
すなわち、「大きな生命」
の地平において、
人は蝶であり、
蝶は人なのだ。
荘子の無意識は束の間にそこに降り立った。
だから、その夢は幻ではなく、
現実の深い姿なのである。
by. 桜井章一氏
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私は音よりも、
あるいは響きよりも、
そこにある”気体”とその濃度を感じ、
それらが発する気配を音としてとらえる。
雀鬼会では牌を麻雀卓に捨てるときの音を大切にしている。
牌を打つとき、
無駄な思考、
無駄な動きが無ければこの
「内に響く音」が鳴るが、
少しでも無駄な動作が入ればいい音を響かせることはできない。
牌はつかまなければ捨てることはできないが、
「つかむ」という感覚があると無駄な動作が入りやすくなる。
by. 桜井章一氏
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だから私は道場生に
「つかむんじゃなくて”触る”くらいの感覚で牌を握りなさい」
と教えている。
触る感覚は、
つかんでいないので、
そこに執着が無い。
執着を省くことで動きに無駄が無くなり、
思考も動作もやわらかくなっていく。
牌の発する「内に響く音」とは、
雨粒が水溜まりに落ちたときのような、
自然の発する音に近い響きである。
by. 桜井章一氏
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雲つかむようにふわりと、
触るかのように牌を持ち上げる。
そうすると、
卓に牌を捨てるときにもいい音を響かせることができるのだ。
趙州の行為に関してだが、
草履とは足に履くものである。
それを頭に載せるということは、
「お前らのやっていることはすべてが真逆だよ、
無茶苦茶だよ」
と暗に示しているのではないだろうか?
by. 桜井章一氏
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「君たちのしていることは禅の教えに反しているよ」
「何年修行しても、
何も身に付いていないじゃないか」
それを、まるで相手を嘲笑うかのような
「草履を頭に載せる」
という行為で示したように思うのだ。
また、土にまみれた汚い草履は人から軽んじられ、
ぼろくなるといとも簡単に捨てられる運命にある。
頭の上に載せられた草履は無残に命を捨てられた猫そのものではないだろうか。
by. 桜井章一氏
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汚れて粗末に扱われる草履を頭に載せしずしずと歩くことで、
同時に趙州は猫を弔っているのではなかろうか。
しかし、修行僧たちが猫を奪い合い、
和尚がその猫を切る。
あまりにナンセンスすぎておかしくなってくるが、
これが人間の真の姿だと言うこともできる。
欲、執着心、殺生など、
人間の残酷性はいかに厳しい修行をしても抜けないものであることを、
この公案は教えてくれているのかもしれない。
by. 桜井章一氏
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そう考えると、
趙州の取った行動は”禅”
そのものに対する皮肉である。
どんなに修行しようが、
徳を積もうが、
人は欲や執着心から離れることができない。
人間は「人間」であり続けるしかない。
趙州はそんな人間の滑稽さをも、
「草履を頭に載せた珍妙な姿」
を通して私たちに教えてくれているのではないだろうか。
by. 桜井章一氏
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