■究極の選択 -集英社-
“知”や”情報”といったものの量が増えれば増えるほど、このような人々を苦しめる”種”が増えているような気がしてならない。頭には時計が入っているが、感覚の世界に時計はない
もし、女性の読者の中で、
昔からDV傾向のある男と縁のある人がいたら、
今後のためにも
「なぜ自分はそのような男を選んでしまうのか」
を考え、
それとともに自分の内面の問題も見つめ直すといいと思う。
何かあった場合、
そのケジメ、
責任をしっかり取るのが”男”の生き様である。
「弱い犬ほどよく吠える」
と言うが、
男も弱いやつほどよく吠える。
弱いから、
自分より弱い存在に八つ当たりしてしまうのだ。
by. 桜井章一氏
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自分の子どもを叱り付けるにしても、
本当に教育のために叱っているのか、
それとも夫婦間や仕事でいやなことがあり、
その八つ当たりで叱っているのか。
ダメな人間から学べることはたくさんあるのだ。
私は子どものころから
「楽な道と険しい道のふたつがあったら、
険しい道を選ぶ。
なぜなら、そのほうが楽しいし、
自分を成長させてくれるから」
と思って生きてきた。
by. 桜井章一氏
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「果たしてやっていけるのか?
俺の根性なら一年は持つかな……?」
と前途を待ち受ける辛さを思って思わず涙したのだ。
私がもし、
家庭に尽くしてくれる良妻賢母タイプの女性と結婚していたら、
家庭生活や子どもとの触れ合いに手を抜き、
ダメな亭主、
弱い男になってしまっていたかもしれない。
“知”や”情報”といったものの量が増えれば増えるほど、
このような人々を苦しめる”種”が増えているような気がしてならない。
不老不死は自然の流れから外れる発想だから私にはとうてい受け入れられない。
by. 桜井章一氏

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自分は変わらないのに、
周りはだけはどんどんと変わっていく。
新しい出会いはいろいろとあるだろうが、
仲よくなった人たちの”死”
を見送るだけの人生はやはりちょっと受け入れられない。
人の一生は長く生きることよりも
「どう生きたか?」
のほうが重要だと思うし、
私自身、
常に”今”を大切にして生きてきた。
そもそも、「長生きしたい」
とか「どう老後を生きるか」
といったことばかり考えず、
今を大切に、
今を楽しく生きていれば、
変な妄想も幻想も出てきやしない。
by. 桜井章一氏
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もっとも、
この社会で今を大切に楽しく生きていくことはなかなか難しい。
それは、絶えず将来の目標を掲げることを迫られるような環境にあるからだ。
このように現代人は非常に頭でっかちな生き方をしているが、
頭というのは基本的に過去振り返ったり、
未来を想ったりする機能を持っている。
だから、今を楽しむという生き方に変えていきたいのなら、
頭を休めて感覚を動かす時間をできるだけ持つようにすることだと思う。
by. 桜井章一氏
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頭には時計が入っているが、
感覚の世界に時計はない。
そんな感覚を立ち上げ、
どれだけ「生」を味わい、
楽しめるか、
そこに未来や過去の呪縛から離れるヒントがあるのではないだろうか。
ある程度の年齢に達した人が、
末期の病気などで苦しんでいる場合、
私は自ら死を選ぶ選択肢があってもいいように思う。
だが、このとき安楽死という選択が認められないなら、
私はどういう生き方をするだろうか。
by. 桜井章一氏
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脳がしっかりしているのであれば、
私は目や口など、
動かせるところを最大限に生かして意思伝達法を探し、
その中からおもしろさや楽しみを探していくと思う。
生をつないでいくことは変化していくことであり、
変化できることは小さなことでも可能性を生み出し、
喜びに結び付く。
「あ、こんなふうに身体は衰えていくのか」
と感じつつ、
「では、その中で何ができるか」
を考える。
体のあちこちが故障し、
思うように動かせなくなっているが、
それでもまだいろいろな可能性が残っている。
by. 桜井章一氏
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そんなことを日々感じながら、
気がついたら「死」の中にいるというのが、
今の私が想う理想の死に方である。
ものを見るときよく
「目を凝らす」
と言ったりするが、
自分の牌、
他人の牌を見ようと「目を凝らす」
から動きが硬くなる。
「凝らす」ことで動きが固定されてしまうわけだから、
動きが硬くなって当然である。
耳で自分の牌の音、
相手の牌の音を聞いていく。
by. 桜井章一氏
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その助言をしてから、
道場生の無駄な動き、
硬い動きがだいぶ少なくなっていった。
それぞれの発する牌の音を聞いているだけで、
その卓ではどのようなことが起こっているのかだいたいわかるし、
「今日はあの道場生は調子がいいな」
「会社で何かいやなことでもあったのかな」
といった道場生の内面も見えてくる。
聴覚は視覚に比べ、
意識の深い部分、
すなわちより本能に近いところにつながっていると思う。
だから、視覚に頼るより、
聴覚を鋭くしたほうが、
生の世界を純粋につかむことができる。
by. 桜井章一氏
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私がそんな危機的状況に置かれたらどうするか?
そう、私だったら仲間の死体は食べないかもしれない。
逆に「俺が死んだら俺の肉を食えよ」
と仲間に言うだろう。
極限の状態に長く置かれると人間の精神は錯乱し、
通常の感覚が保てなくなる。
by. 桜井章一氏
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アメリカではイラクやアフガニスタンなどの戦地から帰還した兵士たちが精神を病み、
柔道のPTSD(心的外傷後ストレス障害)と診断され、
自殺者が後を絶たないことが大きな社会問題となっている。
だが、狂気の世界に慣れてしまった兵士たちは、
本国に帰還し、
通常の生活に戻ってもその思考と行動がなかなか抜けずに悩み苦しむことになってしまう。
平和ボケは批判的なトーンで使われる言葉だが、
平和でボケること自体は悪いことでは無い。
ただ、平和の均衡というのは、
ちょっとしたことで脆く崩れるものだから、
戦争でもテロでもそれを防ぐためにはどうすればいいのかという思考や、
現実にそれが起こって
「極限状態に自分が置かれたらどうするか?」
という想像は必要だろう。
by. 桜井章一氏
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平和な日常はほんの一瞬でいくらでも、
非日常的な極限状況になり変わってしまう。
すなわち、平穏な日常は極限状況と見えないところで常に隣り合っている。
瞬時に状況を確認し、
電車を止めることが無理だと判断すれば、
次は五人とひとりのそれぞれの年齢を見る。
もし五人のほうが老人ばかり、
ひとりのほうは若者だとしたら、
私は若者を助ける。
by. 桜井章一氏
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その五人の老人がもし権力者ばかりだったら、
なおさら躊躇なく若者を助けるだろう。
五人もひとりも年齢的に大差が無いとすれば、
最後は人数で判断するしかない。
それは五人を助けるためにレバーを引くのではなく、
「あなたの隣に立っている人を線路に突き落とせば、
電車が止まるので五人が助かる」
という状況である。
犠牲になる人数だけを合理的に判断すれば、
突き落とすほうがいいわけだが、
自分の手でひとりの人間の命を奪ったという強い実感はより大きな罪悪感を伴うということなのだろう。
by. 桜井章一氏
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人類の争いの歴史において長い間、
人はこん棒や刀などの武器を使って人を殺してきたが、
近代に入ってからは科学技術の急速な進歩によって武器はそれを使う人の体をほとんど動かさずして殺傷できるものとなった。
木の棒を使って相手を殴り殺すのと、
指一本使って敵に向けてミサイルを発射させるのとでは、
罪悪感が違ってくる。
その差が大量殺りくに対する心理的ハードルを下げていることは間違いない。
同じ数だけ人を殺すのにも使う武器によって罪悪感の濃淡が変わるというのは極めて不合理なことだが、
その不合理な罪の意識がある部分で科学文明を発展させたことは否めない事実である。
by. 桜井章一氏
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