■神頼みを捨てる思考力 ~心の弱さを克服する、雀鬼流「裏」聖書~ -ワニブックス-
現実の世界は厳しい。この弱さをから脱するには、今まで身に付けてきたものを捨て去るしか方法はない。しかし人生というのは思い通りにいかない
人は毎日の生活の中で意識と無意識を繰り返しながら生きている。
このように人は意識と無意識の間を行ったり来たりしながら生きているのだが、
それと同じように、
人は”現実と妄想”の間でも常に揺れ動いている。
そもそも妄想の世界が”神”
やそれに近い存在をつくりだしたのかもしれない。
人間は神秘的なものに惹かれやすい性質がある。
by. 桜井章一氏
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それが危険なものだと分かっていても、
その内側を見てみたくなるのが人の性というものだろう。
神秘的なものは、
言ってみれば非科学である。
非科学が妄想であるならば、
科学はまさしく現実である。
しかし、だからといって科学の世界だけで生きていればいいのかといえば、
一概にそうもいえない。
by. 桜井章一氏
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現在の福島の惨状を見てもらえば、
科学の世界も行きすぎれば非科学の妄想と変わらぬ状況になってしまうことが分かってもらえるはずである。
現実の世界は厳しい。
その厳しさから逃れるために宇宙へ飛び出し、
そこでまた科学を用いて現実を追求しようとしているのが人間である。
私は、「人間はこの世でももっとも弱い生き物なのではないか」
と思うことがある。
by. 桜井章一氏
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だからこそ人間は、
火を使い、
言葉や字を使うようになり、
衣服を纏い、
やがて武器を持つようになった。
今の世の中で”商売”とされているものも、
そのほとんどが人間の弱さを利用したりしているものばかりである。
私は宗教からも多分にそのような狡猾さを感じる。
人は弱い生き物である。
だから他のものに頼ったり、
願ったりするようになる。
by. 桜井章一氏
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この弱さをから脱するには、
今まで身に付けてきたものを捨て去るしか方法はない。
弱いからこそどうすれば楽にできるかを考え、
利便性や効率性を高めるために道具や機械を生み出してきた。
それならせめて「自分の尻は自分で拭く」
という感覚を持って、
他のものにあまり頼らない生き方を追い求めていくべきだろう。
身分相応に生きる、
あるいは等身大の自分で生きる、
そんな考え方を持つこともとても大切かもしれない。
by. 桜井章一氏
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「願えば叶う」
「努力すれば報われる」
そんな言葉にも表れているように、
人間はいつも何かを
“叶えたい”と思って生きている。
何かを叶えたいという気持ちは、
裏を返せば、”思い通りにやりたい”
ということである。
しかし人生というのは思い通りにいかない。
思い通りにいかないのがある意味、
生物として当たり前のことなのだが、
人間はそれに堪えられるほどの強さを持っていない。
by. 桜井章一氏
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いつの時代も計算高い人間は存在し、
そんな人間が人の弱さに付け込んで大衆を操作してきた。
何千年も、
いやもしかしたら何万年も前から計算高い人たちは、
頼んだり、願ったりする人間の弱さを巧みに利用してきたのだろう。
宗教も人間の弱いところ、
ダメなところ、
あるいは誰もが持っている欲を巧みに突きながら様々な変遷を遂げてきたといえるのではないだろうか。
宗教が広まったシステムを見ると、
企業が成長していくプロセスにとてもよく似ていることに気付く。
by. 桜井章一氏
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現代社会の企業の在り方の基本は宗教にあるといってもいいくらい、
そのシステムはとてもよく似ている。
これは日本が今までとってきた教育システムも同様である。
組織の人数が増えれば増えるほど、
そこに集まる人間も多種多様になり、
ひとつにまとめるのは難しい。
結局のところ、
どんな組織であれ”その他大勢”
の人間が一部の計算高い人間によって操られ、
動かされているという一面があることは否めない。
by. 桜井章一氏
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人はだれでも多かれ少なかれ、
どこかで”救われたい”
という気持ちを持っている。
そうやって一瞬だけ”いい人”
になって満足している人がたくさんいるが、
現実で嘘をついたり、
ごまかしたりを繰り返しているからこそ、
そうやって教会やお寺に救いを求めてしまうのだろう。
人間というのは善と悪の中を揺れ動く振り子みたいなもので、
その振り幅が大きければ大きいほど、
善と悪が両極端に表れる。
善のほうに振れれば振れるほど、
悪のほうの振り幅も大きくなってしまうものなのだ。
by. 桜井章一氏
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でもその振り幅をできるだけ小さくしていようと心がけている。
だからよいことも悪いこともほどほどに。
ほとんどの人はその「いいこと」だけに目を奪われ、
「あの人は立派だねぇ」
と評価するのだろうが、
私はその裏にある「悪いこと」
をどうしても感じてしまう。
「悪いこと」をみんな恐れるのだろうが、
私は「いいこと」も同じくらい怖いことを経験上よく知っている。
by. 桜井章一氏
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人間はどこかでいわゆる”利”
というものを優先して考えている。
20世紀初頭、
西インド諸島のプレー火山が噴火した際には、
3万とも4万ともいわれる市民が一瞬にして命を落とした。
生き残ったのは地下牢に閉じ込められていた囚人ひとりと、
地下倉庫で作業をしていたという靴職人の、
たったのふたりだけだったそうだ。
神を信じ、
善行に努めていた人たちはみんな噴火に巻き込まれ、
悪事を働いた罪人が救われる。
by. 桜井章一氏
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生と死、あるいは
「救われるか救われないか」
ということに関しては善も悪も関係ないのである。
汚いこと、卑怯なこと、
酷いことが平気でできる人間が救われたり、
権力を手にできたりするシステムになっているのだ。
かつては「悪いこと」
とされていたことが現代社会では必ずしも悪ではなくなっている。
みんながそんなさじ加減で生きていればいいのだが、
「得ること」「豊かになること」
がいいこととされる現代社会では、
誰よりも抜きんでるには振り幅が大きくなければならない。
by. 桜井章一氏
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人は生きている限り、
振り子を揺らさなければ生きていけない。
どうしても振り子は揺れてしまうのだが、
その振り幅をできる限り抑えてようとする気持ちがとても大切である。
だが、今の世の中の尺度では振り幅の大きい人間ほど優秀とされてしまうから、
いいことの裏で酷いことをする人が増えてしまうのは当然のことなのだ。
資本主義の世界ではどれだけ他から分捕れるか、
または誤魔化して持ってこられるかが成長の鍵となる。
by. 桜井章一氏
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しかし、自然の中で生きる生物たちは、
台風が来ようが、
地震が来ようが、
慌てふためくこともなく、
淡々とそれぞれの”生”を全うしている。
人間の世界ではそれが親子の愛とされるが、
自然界に親子の愛などは存在しない。
自然界の生き物たちにあるのは親子の愛ではなく、
“どうやって生き残っていくか”
である。
自分の種族が生き残るために、
強い遺伝子を残す。
by. 桜井章一氏
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1000匹、あるいは1万匹の子を産んでも、
生き残るのはわずか数匹。
そんな激しい生存競争の中で、
彼らは人間のように考えるでもなく、
悲しむでもなく、
ただ本能のあるがままに生きている。
人間には時間を感じる「計る」
感覚や距離感を感じる「測る」
感覚があるが、
動物たちにあるのは「測る」
感覚だけである。
人間のように「計る」「図る」
という感覚を使って人を欺き、
己の欲望を満たすということはない。
by. 桜井章一氏
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