■子どもを幸せにする親、ダメにする親 -成美堂出版-
善いとされることに従ってさえいれば善くなるのかという疑問があります。だから世の中を渡るには、世間の常識や善いとされる価値観を疑うくらいでちょうどいい
「既製服で間に合う」とは、
できあいのものに人間を合わせているということです。
できあがってしまった定型の教育方法や社会の考え方を子どもに当てはめることになるでしょう。
なぜならそんな既製服のような教育は誰にもぴったりこないはずだからです。
教育という服は本来、ひとりひとり、
皆サイズも違えば好みも違う。
by. 桜井章一氏
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こんな不自然なことなのに、
それに疑問を感じたり、
意義を唱える人が少ないのは、
できあがっているマニュアルや型にはめ込むほうが、
教育を施す人間にとってはそのほうが楽だし、
都合がいいからです。
子どもの資質や性格を見て、
子どもを光らせるものが何かを知らないといけない。
子どもはナマモノです。
日々枝葉を伸ばすように成長している。
マニュアルや型通りに成長するはずがない。
by. 桜井章一氏
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しかし、今の教育は、
そういう子どもの気持ちを無視することで成り立っています。
子どもが本当に求めるもの、
必要とするものを、
そのときどきに応じて、
与えるのが教育であるはずなのに。
もっと核心にあるのは、
家庭や学校でなされる教育のマニュアル化、
画一化です。
子どもだって、
「自分だけのかけがえのない教えだ」と思うと、
きっと与えられる教育を大切にすると思います。
by. 桜井章一氏
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日々成長する子どもは、
自ら必要なものを求めます。
オーダーメイドの服をつくるなら、
たくさんある布地の中から
「この色がいい」
「この素材なら似合う」
と自分で選ばなくてはいけない。
それが責任感にもつながっていきます。
責任感は与えるものでなく、
そうやって自分で生み出していくものです。
by. 桜井章一氏
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子どものサイズに見合うよう、
生地を仕立てていく。
そこにも大人側の責任感が必要となってきます。
大人が大事とする考えを一方的に押し付けるのではなく、
大事な考えや教えを間に挟んで大人と子どもが関係を絶え間なく調整しながら五分五分の付き合いをする。
それが教育のあるべき姿ではないでしょうか。
by. 桜井章一氏
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私には「社会の提供する価値観そのものが本当に善いものなのか?」
という思いがどこかにあります。
善いとされることに従ってさえいれば善くなるのかという疑問があります。
親や教師による教えはたいがい正しい、
だからできるだけ理解しようという考えは大間違いだと思います。
逆に疑うことで正しいことが見えてくることだってあります。
by. 桜井章一氏
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正しいとされることも、
悪いとされることも「本当だろうか?」
と疑ってみる。
矛盾しているかもしれませんが、
自分の生き方を決めるような本当に大事なことは、
物事を立体的にいろんな方面から見る必要があると思います。
私と麻雀の出会いは運命的なものでした。
しかし、私は麻雀を疑った。
世間では汚いと思われている勝負事ですが、
逆にそこから
「プラスのもの、善いものが生まれてくるんじゃないか」
と信じたわけです。
by. 桜井章一氏
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だから雀鬼会の麻雀は勝ち負けにこだわらず、
打つ姿勢や人間性を評価するというきれいな麻雀を打つことを目指しています。
大人たちは、そういう子を叱ったり、
怒ったり、なだめたり、
手を替え品を替え、
大人の信じる「善い」価値観を身につけさせ、
教育しようとします。
しかし、私の感覚では、
その手の「楽」には危うさを感じます。
「社会の価値観に頼り切っているとき、それがもし正しくなくて梯子を外されたらどうするんだい?」
という思いがあるのです。
by. 桜井章一氏
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だから世の中を渡るには、
世間の常識や善いとされる価値観を疑うくらいでちょうどいい。
そういう人間のつくったこの社会というものを疑いの目で見れば、
案外、世の中の考えはいい加減なものだということがわかってきます。
教育というものにもどこか疑心暗鬼の感覚で接することが大事なのです。
人を育てるなんてことは、
私には到底できません。
by. 桜井章一氏
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だいたい人を育てるということが根本的にありえるのだろうかと思っています。
太陽と水と空気という自然の恵みがあって、
野菜が自らの力で育っている。
もし人に何かできることがあるとすれば、
「育ち」をほんの少し手伝わせてもらうだけです。
私は「育てる」ことより、
人と接する中で生まれる「導き」
がありさえすればいいと思っています。
by. 桜井章一氏
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「導き」とは言葉を変えれば、
はっと気づかされる「気づき」の体験です。
しかし、田舎の畦道なんかで出くわすシワだらけの顔とふしくれだった手をしているようなおばあさんには、
一瞬で気持ちがひきつけられ、
頭が下がる思いがします。
その方の人生の辿り方が体全体から伝わってくるからです。
それに比べて果たして、
自分は年齢と呼べるようなものを人生に刻んできただろうか。
by. 桜井章一氏
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自分の今いる場所に気づかされ、
これまでの生き方に気づかされる。
きれいごとだから、
地位や名誉がっても、
その人と接して感じ入り、
何かをはっと気づくようなことにはならない。
でも、こうして体を使って世間の評価とは違うところで苦労して生きてきた人に触れたとき、
ふっと我が身を振り返るような気づきを得られる。
こういう「気づき」が教育には大事だと思うのです。
by. 桜井章一氏
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でも、それはわざとやってできるものではありません。
あくまで自分で気づき、
納得しないことには変わらないのです。
きっかけになるくらいのボールはいくつか投げたかもしれませんが、
あくまでそれは本人が何かのきっかけに、
私の行動やしゃべっていることに自分の中の何かが触れる
「気づき」をしただけのことです。
教えよう、育てようと上から一方的に与えられたものは、
簡単に子どもにしみこみませんが、
子どもが感じた「気づき」は体の深いところで理解され、
血や肉になるものです。
by. 桜井章一氏
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このように、教育とは上から「育てる」という意識でするものでなく、
体を触れ合わんばかりに接する中で与えられる「気づき」によってなされるべきものではないでしょうか。
もし、そういう考え成り立つのなら、それは
「大人は子どもより物事の分別がついている。
だから何が正しく、何が善いかを子どもに教えることができる」
という条件と、
「子どもは素直に教えられることを受け入れる」
という条件がともに一〇〇%の状態で重ならなければいけないでしょう。
それだけ制度や思想が言う善悪はあてにならないものです。
だから気軽に教育の善し悪しの尺度を持ち出し、
それを一切の疑いもなく信じ、
あれこれ子どもに指図している大人を見るとちょっと怖くなります。
by. 桜井章一氏
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