■子どもを幸せにする親、ダメにする親 -成美堂出版-
元をずっとたどれば人もミトコンドリアのような単細胞でした。何も複雑に考えて複雑にばかり行動する必要はないと思うのです
四里四方ではありませんが、
現代人は先に進むことばかり考えないで元へ戻る必要があると思います。
それは人類の遥か昔の時代へさかのぼることです。
そこに生来の人間の、
生き物としての姿が見えてくると思います。
「人間はどこから来たんだろう」
と考えることがよくあります。
by. 桜井章一氏
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元をずっとたどれば人もミトコンドリアのような単細胞でした。
何も複雑に考えて複雑にばかり行動する必要はないと思うのです。
四里四方の感覚で生きる。
それは言い換えれば、
「地に足をつけた生き方」
をするということです。
by. 桜井章一氏
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しかし、いちいち自分の子どもが他の子どもより
「優れている」からといって安心し、
「劣っている」からといって不安になったりするならば、
それは親バカというよりたんなるバカだと思います。
自分の子どもは、
たったひとりしかいない、
かけがえのない存在です。
その唯一の存在をわざわざ他の子どもと比べて、
「物覚えがいい」といっては喜び、
「発育が遅い」といって悲観する必要はないと思います。
そうした比較するモノサシ自体が、
社会の価値観に則った決まりきったものにすぎないからです。
by. 桜井章一氏
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小さなものしか測れないそんなモノサシを当てはめて、
この子はダメとか優れているといった評価をするのは子どもがかわいそうです。
今ダメでも将来伸びる子もいくらでもいる。
狭いモノサシで簡単にダメとかいいとか子どもにレッテルを貼らないことです。
彼は日ごろからこんな調子ですが、
だからといって、
「俺がなんとかしなきゃ」
とは思いません。
by. 桜井章一氏
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彼はそのままの彼でいてくれることで、
周囲をなごませたり、
楽しませてくれるからです。
世間の「できる」「できない」
の基準で彼を見るのではなく、
彼の人間的な魅力を周りのみんなが感じていればそれで十分だと思うのです。
世間の価値観ではダメだとされることでも人はプラスのものにすることができるわけです。
それだけ人は大きな可能性を持っているということです。
by. 桜井章一氏
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世間の狭いモノサシで子どもを測って、
簡単に善い悪いの価値判断をしないことです。
大人同士の関係を見てもわかりますが、
好かれることを要求する人が果たして好意を抱かれるでしょうか。
相手に自分のことを好きになるよう、
なつくように仕向けるのは、
力の感覚です。
たぶん、それ(孫が私と別れるとき、反っくり返って泣く)は
私が孫をなつかせようとした結果ではなく、
孫に自然と合わせているから起きたことでしょう。
by. 桜井章一氏
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楽しい感覚は安心にもつながります。
孫はそれを失うから悲しくて泣いてしまうのでしょう。
体を張って子どもを守ることはとても大事なことです。
そういう振る舞いの底にある親の気持ちに子どもがもし気づけば、
ああ自分を大事にしてくれているんだなと思うでしょう。
by. 桜井章一氏
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そうでなくても、
日ごろの接し方から子どもは自分がどう思われているか、
敏感に察しているはずです。
親が持っている力は、
子どもを押さえ付けるために使うのでなく、
守るために使う。
親と子どものいい関係はそこからしか始まらないと思います。
世間的に立派と思われている人、
大成した人を見ても、
たいてい私は違和感を覚えます。
by. 桜井章一氏
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それはその人の成功にいたるまでの道筋に、
ある種の汚さ、ずるさが見えたりするからです。
世俗の成功は、
どこかに必ず汚さを含んでいるものです。
それをないかのごとく立派に振る舞っているのにどうもひっかかってしまうのです。
「きれいごとでは飯は食えない」。
by. 桜井章一氏
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これは「正しいことをしたら食えないよ」
と言っていることに他ならないわけです。
この常識とも言える言葉の中にすでに、
「不正をしないと成功しない」
という考えがあるのです。
なぜかといえば、自分の得たものは、
ずる賢さや不正、
汚さを承知でやったことからきている。
言い換えればそれは自分の弱さに居直っているとも言えます。
by. 桜井章一氏
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私はへそ曲がりですから、
「だったらきれいごとでいいんだと証明しよう」
と、あるとき思いました。
私が雀鬼会をつくったのも、
汚く勝つのではなく、
きれいに勝ったりきれいに負けるという、
きれいな勝負をする麻雀を目指したからです。
「きれいごとでは飯は食えない」
というような、
すれた汚い人生哲学を大人は子どもに教えてはいけないと思います。
大人は「きれいごとでも飯は食える」
という生き方こそを、
子どもに見せてあげて欲しいものです。
by. 桜井章一氏
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人生を変える教えというものがあります。
アライ先生が殴った理由は、
学校に足の不自由な子がいて、
私が何の気なしにその子の真似をしたからです。
先生はそれを見つけ、
私のところへ駆け寄ってきた。
そしていつもは優しい先生が怒りによる真っ赤な顔で私を殴ったのです。
by. 桜井章一氏
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そのとき私は体でわかったのです。
「そうか。こういうことが本当に悪いことなんだ」と。
優等生も私みたいな言うことを聞かない子どもも、
えこひいきすることなく接してくれた先生の怒りに触れたとき、
弱い立場に追い込まれている人をバカにしたり、
いためつけることのずるさ、汚さ、
悪さについて学んだように思います。
親が子どもに真剣に叱るべきときがあるとすれば、
まさに子どもが卑怯な真似、
汚い真似をしたときだと思います。
by. 桜井章一氏
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教師や親は、
子どもに「卑怯」や「汚なさ」
というものをあえて教えるべきだと思います。
行儀が悪いとか親の言うしつけ通りにしてくれないとか、
あるいは学校の成績が悪いからといった理由で、
本気で怒る親というのは結局自分の思い通りにいかない苛立ちからそうしているわけで、
これは基本的に醜いことです。
子どもが「二度とやりません」
と言おうものなら、
「おい、待て。
それは嘘じゃねぇか。
またやるだろう?」
と言います。
人間、同じ過ちは何度も繰り返すものです。
「二度としない」と言っている時点で、
もう二度目が想定されているのです。
by. 桜井章一氏
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