■子どもを幸せにする親、ダメにする親 -成美堂出版-
疑うからこそ、よく観察するようになるんです。何かができるから誉められたり、喜ばれたりしているうちは、大したことありません
でも、私にとっては、
そういう出世(現場から離れ、戦略を練る立場)
は人間的に鈍感になっていくと思うのです。
頭の中で描いた絵図では上手くいっているのでしょうけれど、
現実は脳内の考え通りにいくはずがない。
言葉や知識をたくさん持てば、
現実を把握することができるという幻想を多くの人は抱いているかもしれません。
しかし、本当に実際のことが起きているのは、
いつも「現場」です。
by. 桜井章一氏
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そこに絶えず触れていれば、
瞬発力やひらめき、
臨機応変さというような、
生き物として人間が本来持っている力を最大限に発揮できます。
情報や知識にもとづく政治やビジネス上の戦略や合理性は、
あくまで利益を手に入れるためにあります。
それよりも現場を大事にし、
現場感覚を持っていることの大切さを胸に言い聞かせて体を動かすことが必要ではないでしょうか。
私はよく母親に
「ろくに頭の上の蝿も追えないくせに」
と言われて育ちました。
by. 桜井章一氏
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蝿とは自分の頭の中にあるダメなもの、
汚いものです。
母が自分の苦労を口にしなかったからこそ、
私は黙って学べたし、
その言葉の意味にようやく気づけるようになりました。
本当の学びとは、
相手からの無言のうちに何かを汲み取り、
自分で気づきを得ることなのかもしれません。
母が私にしてくれたのは、
まさにこうした「教えないという教え」
だったんだと思います。
by. 桜井章一氏
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信じていながら同時に疑うことも必要なのです。
子どもをひたすら信じて、
疑わずにいると、
子どもが発する危険な信号をつい見落としたりします。
こうした「あれ?この子の動きがいつもと少し違う」
といった気づきは、
「疑う」という感覚をどこかにいつも持っていないと見えてきません。
疑うからこそ、よく観察するようになるんです。
by. 桜井章一氏
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疑うとは、繰り返しになりますが猜疑心のように
「きっと悪いことをしているに違いない」
といった目で見ることではありません。
そうではなく、「大丈夫かな?」
「なぜなんだろう?」と問うことです。
信頼を持ちつつ疑ってみる。
「半信半疑」は決して中途半端な姿勢ではありません。
by. 桜井章一氏
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愛というものの裏側には依存心といったものが張りついているものです。
愛はその性格上、
相手への依存という傾向を強く持っています。
乳を飲ませてもらったり、
抱っこしてもらったり、
依存心は人間に生まれついてのものなのです。
大事なのは、愛とのバランスにおいていかにいい依存心を持つかということだと思います。
by. 桜井章一氏
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まるで自分の命そのものを見ているような気がするのです。
命のおしまいをひしひしと感じさせてくれる。
そういう存在が孫なのです。
孫は本能的な感覚がもたらす絆というものを教えてくれますから、
そこにわざわざ愛を持ち出す必要がありません。
by. 桜井章一氏
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ややもすると愛は相手に大きな負担をかける依存心にも転化するものです。
親は子どもに対して立派に振る舞おうとしますが、
それは子どもにとってはむしろ負担になるものです。
できないことがあれば、
できないことをどんどんさらけ出すようにしているのです。
孫も「爺ちゃんもできないんだ」とわかると、
楽になります。
by. 桜井章一氏
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「できなったらどうしよう」
「できないことは恥ずかしいことだ」
というプレッシャーや不安をそこで取り払ってあげられます。
子育ては、親が「できる」
ことを教えようという方向でなされるものですが、
反対に「できない」という教えによって効果的に伝えられることもたくさんあるのです。
親が自分のダメなところを恥ずかしがって隠すから、
子どもはダメなことに対して否定的な考えを抱き、
ごまかそうとしたり、
できないところのある子どもをバカにしたりいじめたりするのです。
結局、親が自身のダメさを認められないのは、
「できる・できない」にこだわり過ぎているからです。
by. 桜井章一氏
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もし、自分のダメなところを出せるのなら、
それは、「できる」ということに妙なこだわりがなく、
自分をごまかしていないということです。
いつも正しいことばかり、
ちゃんとしたことばかりを子どもに教えていると、
教えているほうの親は一〇〇%正しいわけではないので、
親は嘘をついていることにもなります。
いいものを目指す人は、
ダメなところに見向きもしません。
でも、私は優秀な人や偉い立場の人よりも、
世間からダメと言われている人から学ぶことが本当に多いのです。
by. 桜井章一氏
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何かができるから誉められたり、
喜ばれたりしているうちは、
大したことありません。
たとえできなくても、
存在として恰好がよければ、
わざわざ背伸びする必要がありません。
ダメなところ、できないところも含めてありのままを見せてきたつもりです。
娘は私を恰好良く思ってくれているのかもしれませんが、
そんな恰好良さがもしあるのだとすれば、
それはダメなところも隠さないからだと思います。
by. 桜井章一氏
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女の子は小さいうちから
「誉めて欲しい」
という気持ちが強いようで、
誉めてもらおうという行動をよく見せるところがあります。
男の子はどちらかというとそうした気持ちが弱い。
たとえ子どもでも、
誉められることを求めないほうが男として恰好いいなと思うからです。
こうしたことよりも、
もっとはっきりと感じる男女の違いと言えば、
男は耳で存在を把握し、
女は目で確認するという感覚的なものでしょうか。
by. 桜井章一氏
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男の子は見えない壁の向こうを感じ、
女の子は見える範囲を把握しようとしています。
女性の包容する範囲は目の届く距離で、
そのためちょっと小さい気がします。
それに対し父親は子どもを大きく包むような感覚を持っていると思います。
このように、親も子どもも、
それぞれ男女の違いや傾向をふまえた上で、
接することが大事だと思います。
by. 桜井章一氏
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都会に住んでいるとどんどんナマの感覚から離れていくものです。
四里四方。
それを故郷と言うならば、
その故郷からどんどん人間は遠ざかっています。
でも、「りんごは本来これくらいの大きさだったよね」
というような感覚を自分で身につけていないといけないんじゃないかと思います。
そうでないと生き物として衰える気がします。
by. 桜井章一氏
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