■努力しない生き方 -集英社-
自由を求めるとますます苦境に陥ることもありうる。
自由になりたいという衝動は、
さまざまな制約のある中で生きていかざるをえない人間にとっては普遍的な真理だ。
だが、自由というのはけっこう曲者である。
by. 桜井章一氏
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自由をもとめていくと、
しばしば自我がだんだん大きくなってくるからだ。
本当の自由とは自我の檻から精神を開放することのはずである。
それなのに、今の人は自由と自我を大きくすることを
取り違えているようなところがある。
つまり、たんに我がままに振る舞うことが自由になっているのである。
by. 桜井章一氏
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だが、自我があれば他我がある。
このバランスこそが大事である。
自由はその上で考えるべきものなのだ。
本当の自由とは、
自我がけっして大きくならない状態で得られる何かなのだ。
by. 桜井章一氏
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人は自由になりたいとき、
さまざまな決まり事やルールなどの制約から自由になることを夢見る。
人生が一つの大きなゲームだとすれば、
このゲームにもまたルールが必要なのである。
そう考えると、ルールから自由になりたいと言っている人は、
自分でまた違うルールを持った新たなゲームをつくらないといけないことになる。
それにはけっこう力がいるし、
また賛同してくれる人がそれなりにいることが条件になる。
by. 桜井章一氏
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ルールのない世界にいけば、
自由を得るようでいて実際はとてつもなく不自由を覚えるだろう。
自由とはあくまでルールの中にある。
ルールの中にあって微妙なバランスの上に成り立っているものなのである。
by. 桜井章一氏
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人は自然から離れ過ぎたため、
地球上で不自然なおかしなことをたくさんやってしまった。
人はもっと大地に近いところで、
大地を足でつかむようにして生きていくべき存在なのだ。
そのことを忘れてはいけないと思う。
by. 桜井章一氏
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振り返ってみると、
自分の人生は我慢というものがない人生だったように思う。
勝負というのは本能をぎりぎりまで鋭くしておかないと
いい勝負はできない。
体はそのことを知って私にそうさせたのだと思う。
by. 桜井章一氏
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私は本当に我慢をしたという記憶がない。
今までやりたいことを存分にやってきたし、
しゃべりたいことも遠慮なくどんな相手に対してもしゃべってきた。
by. 桜井章一氏
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我慢を通して自分の存在を自覚するというのはどこかいびつなものがある。
我慢をひとつの核にして精神形成がなされていくのは、
いいことではないと思う。
我慢したら何か報われるという感覚は、
ほとんどの人が幼いころから刷り込まれたものだ。
我慢がもたらす精神的ダメージは小さいものではないし、
それによってまた必ずしも報われるというものでもないのだ。
by. 桜井章一氏
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愛はよいもの、人間にとっては愛は最も大事なものだと思うのは、
愛は打算のない純粋なものと思い込んでいるからである。
愛が人間関係において最も大切なものだと思っていれば、
無慈悲な行いを平気ですることなどできないはずだ。
つまり、われわれがふだん愛と思っているものは、
本当に愛と言えるのか疑わしいものだと思う。
by. 桜井章一氏
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愛があるからこそ、嫉妬や憎しみや怒りといった負の感情が起こるし、
残酷なことをやってしまう。
すなわち、われわれがふだん使っている愛という言葉はある面、
「所有欲」のことをきれいな言葉で言い換えたものではないだろうか。
by. 桜井章一氏
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そんな愛に果たして真実などあるのだろうか。
もっとも、人は誰しも所有欲が姿を変えた愛というものなしには
生きられない生き物だ。
どうしたっって、人は生きているかぎり、
そんな所有欲という形の愛にとらわれざるをえない。
なぜだか、そこに楽しみや喜びを見出していく生き物なのだ。
by. 桜井章一氏
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愛を与え過ぎるとお互いを縛り合って、
かならず不自由な関係になり、憎しみや怒りが生まれる。
けっして純粋なものではないと思っておけば、
危うい愛をいっぱい相手に与えなくてすむ。
結局、愛はその分量をバランスよく加減することが
大事なのだ。
by. 桜井章一氏
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「心温かきは万能なり」ということを私はよく言うのだが、
実際に心が温かい適温であれば、
わざわざ愛というものを持ちだす必要はないと思う。
心を適温にできれば、
接する相手も自分も心地いいはずである。
愛なんてことは考えないほうがいい。
心が適温でありさえすれば。
by. 桜井章一氏
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燃えるように熱いものは、
反対にすぐ冷めやすい。
熱血漢の情熱というのは長続きしないのだ。
熱血というのはある面、
弱さの裏返しでもある。
その弱さをひっくり返そうとして血が熱くなるのである。
by. 桜井章一氏
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