■努力しない生き方 -集英社-
信念を持つとは一つのことに集中するということである。
今の教育は一つのことに集中しろ、
そんな集中こそ成果をもたらすんだということを教える。
だが、そのような集中は往々にして不自由さを招くとらわれとなってしまう。
変化が起こったときに柔軟に対応できなくなるし、
いざというときに失敗を恐れて違う選択をする勇気を持てなくなってしまう。
by. 桜井章一氏
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私は常に一つのことだけを追いかけることはしない。
一つのことだけを真面目にやるのは人間のキャパシティを狭くすると思うからだ。
by. 桜井章一氏
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Aということをしながら、BをやりCをする。
そんな「ながら」感覚こそ大事にしているのだ。
そもそも生命とは多様なものである。
世界中に多様な文化があるのも、
そうした生命本来の多様性からきているのだ。
by. 桜井章一氏
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生き物は多様性をなくすと衰退し、やがて滅びてしまう。
そのことは自然界を見ればよくわかる。
一つだけを貫くのでなく、多に向かって多を楽しむ。
そのことが人をより大きな可能性に向けて開いていくのである。
by. 桜井章一氏
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今の社会は数字が支配する社会である。
人の行為や関心にはたいがい何かを表す数字がついている。
しかし手にするお金の額で人の値打ちが決まるほど人生が単純なものであれば世話はない。
by. 桜井章一氏
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計算をする世間の麻雀に対して計算しない雀鬼流の麻雀のほうが強いとすれば、
何かを示唆しているはずだ。
ふだんわれわれが生活や仕事でひっきりなしにしている計算の多くはもしかして無駄だったり、
マイナスになっているのではないかということだ。
by. 桜井章一氏
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テクニックには限界がある。
たしかにテクニックはあるところまでは人を運んでくれる。
だが、あるレベルを超すとそれが通用しなくなる領域があるのだ。
すなわちテクニックを磨くことだけに集中するといずれ伸び悩むことになるのである。
by. 桜井章一氏
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最後に相手を動かすのは、テクニックを超えた力だ。
その力は、何かの行動を通して相手に伝わることもあるだろうし、
豊富な経験から無言のうちに導かれることもあるだろう。
テクニックというのは相手を操ろうという意図が底にあるもの。
by. 桜井章一氏
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テクニックというのはたとえ優れたものであっても溺れてはいけないのである。
反対にいざとなれば捨ててしまってもいいというくらいの気持ちが大事だ。
そういう感覚を持てたとき、
人はさらにその上のレベルへ向かっていくことができるのである。
by. 桜井章一氏
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私自身は基本的に、
どんな状況でも手を抜くということはしない。
というのも、エネルギーというのは出し惜しみをしていると、
エネルギーが蓄えられるどころか、
かえって涸れていく性質を持っているからだ。
by. 桜井章一氏
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効率主義や合理主義は行き過ぎると人間関係にまでその物差しを当てはめるようになってくる。
そうなると、人は人というよりモノのような扱いをされることになる。
モノとなれば人格はそこに認められない。
そうなると当然ストレスはたまり、
人間関係はますますいびつなものになってしまう。
by. 桜井章一氏
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しかし、付き合いそのものが大切であれば、
それは仕方ないことだし、
結果的にかえっていい仕事が生まれることだってある。
もし自分がモノのように機械的に扱われたくないのであれば、
少なくとも人と接するときだけは効率や合理という発想をしないようにすることだ。
そしてエネルギーを出し惜しみするなんてことはしないことだ。
by. 桜井章一氏
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麻雀を打つとき、私は相手の捨牌をはっきりとは見ない。
自分も牌も含めて視界に入ってくる牌の絵柄はただぼーっと見ているという感覚だ。
どちらかと言うと目で見ると言うよりは、
皮膚で感じるといった感覚に近い。
by. 桜井章一氏
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牌を打つとき、私は音を大切にしている。
牌を打つ音でその人の調子や技量までわかったりする。
音にはすべて表れるのだ。
きれいな麻雀を打てばきれいな音が鳴るし、
汚い麻雀をすれば汚い音が溢れてくる。
by. 桜井章一氏
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聞くという感覚は見る感覚より、本能に近い。
たとえば壁の向こうにいる人の気配は目で認識はできないが、
耳を澄ませば感じることができる。
今の人はそんな見る行為にあまりにもとらわれてしまって、
その裏側で何か大きなものを見落としているように私には感じられる。
by. 桜井章一氏
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