■手離す技術 ~20年間無敗、伝説の雀鬼の「執着転換力」~ -講談社-
人間の精神は、内と外それぞれにあり、
その両方のバランスをとることで成り立っている。
ナルシストとまでいかなくても、
精神のバランスが内側に偏ってしまっている人はとても多い。
by. 桜井章一氏
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日本くらい環境が豊かだと、
「ひとりでもどうにかなる」、あるいは
「ひとりぐらいいなくてもなんとかなるだろう」
といった感覚が人間の中に芽ばえてくる。
この「ひとり」という感覚が強すぎると、
精神は内へ、内へと向いていくようになるのだ。
by. 桜井章一氏
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豊かすぎる環境に慣れてしまった人たちが
「足りない、足りない」と騒いでいる。
そういった人たちは、
自分以外の人たちに分ける、
与えるという感覚が徐々に薄れていき、
やがて「私」の世界に閉じこもってしまうことになる。
鬱病になる人、自殺してしまう人はすべて、
内と外の精神のバランスが崩れてしまった人たちなのである。
by. 桜井章一氏
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多くの人が思っている「信念」とは、
森で建築資材を探すのに似ている。
家を建てるには木材が必要だ。
だから木を見ても、
その幹だけ見て「この木は使える」
「この木は使えない」と判断する。
「家を建てる」という考えに囚われてしまっているから、
木を見ても幹しか見ない。
by. 桜井章一氏
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しかし木というのは、幹の先に枝もあれば、
下には土があり、その中には根もある。
「木」を「信念」として捉えた場合、
本来ならその幹ばかりでなく、
枝や葉、さらに地中に広がる根にも思いをめぐらせなければならない。
by. 桜井章一氏
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多くの人は、森で建築資材を探すように
「この木は使える」「この木は儲かる」といった具合に、
世の中の価値観、あるいは損得勘定で信念を捉えている。
だから、信念を持つことによって、
本当に大切なものがなんなのか見えなくなってしまうのである。
損得勘定のみならず、
固定観念に囚われてしまった視点ではなく、
自然な視点でものを見れば、
木を見たときにも本当に大切なものが見えてくる。
by. 桜井章一氏
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自然のサイクルから考えたとき、
木の中で重要な部分は枝であり、
その枝になる実、
さらに養分を吸い取る根となるだろう。
枝になった実が土に還り、
その土からまた新たな幹が育つ。
そういった循環があって木が木でいられるように、
信念も広い視点で捉えなければ、
人は人でいられなくなる。
本当に大切なのは、
幹のように見える部分の信念ではなく、
枝や葉のように見えないもののほうなのである。
by. 桜井章一氏
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ものごとを続ける中で、
根気というのは必要な要素かもしれないが、
変な信念を意固地になって持ち続けていては、
人の思考を固くし、
柔軟な対応をとれなくするだけでしかない。
信念を持っていても、
妥協するときには妥協しなければならない。
「この道は譲れない」と思っていても、
人生の中には譲るべきタイミングというのが必ず出てくる。
そんなときに「理解」する気持ちがあれば、
柔らかい対応も可能となる。
by. 桜井章一氏
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形だけの「信念」に囚われてしまうと、
柔軟さも、臨機応変さもなくなり、
固く冷たい人間になっていく。
そんな凝り固まった生き方では、
良好な人間関係というものは絶対に築けない。
信念は固く持つのではなく、
柔らかく持つことが大切だ。
そうすれば相手への理解も自然に生まれてくるのである。
by. 桜井章一氏
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道場生の彼らが持っていた執念は、
それぞれの資質から発せられるものである。
私は、彼らの資質を無理矢理変えようなどとは微塵も思っていない。
私には、彼らの生きざまを変える力はない。
もっと突っ込んでいえば、
私に誰かを変える力など絶対にない。
わが子すら、私には変える力などないのである。
自然の力は人間を変えるが、
人間が人間を変えることは非常に難しい。
でも、変えるまでに至らずとも、
ちょっとくらいはきづかせてやることができるのではないか。
「なにかやってあげなくては」という気持ちが半分、
自分自身に対する不信が半分、
その半々を持ちながら、
私はいまも道場生達に接しているのである。
by. 桜井章一氏
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私には、がんばればがんばるほど
悪い方向へ行っているようにしか見えない。
だから私は、人間というものを根本的に信じていない。
人間は「よい」されるものだけを取り込むクセがある。
「よい」と思い込んだものを取り入れ、
それで「いい方向へ」進むと信じ切っている。
そんなこともあって、
人間は「悪い」とされるものには見向きもしない。
by. 桜井章一氏
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しかし、ものごとはなんでもそうだが、
「よい」とされるものと「悪い」とされるもの、
その両方を見ることでその本質が見えてくるのだ。
人間ががんばればがんばるほど、
悪の部分が多くなってくるのだ。
by. 桜井章一氏
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実際にはがんばったらダメなのだ。
人はがんばると余計なものまでどんどん自分に加えていってしまう。
その結果、がんばればがんばるほどニセモノっぽくなっていく。
by. 桜井章一氏
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「がんばれ!」といわれて、
「よし、がんばらなきゃ」と構えるのではなく、
「じゃ、ちょっとやってみるか」
という感じでスイッチをポンと押す。
そのくらいの感覚でいれば、
がんばりすぎて力んだり、
余計なものを取り組んだりしなくて済むし、
その人自身が持っている本当の力も発揮することができる。
「がんばれ!」といわれたからといって、
頑なにがんばる必要はないのである。
by. 桜井章一氏
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麻雀という勝負では、
東南西北という円の流れを大きく、
かつ細かく捉え、
その流れにうまく乗ることが勝負をものにするための大切な条件となる。
いい勝負のときほど、
東南西北の流れはきれいな円の形に近づいていく。
円がぐるぐる回って自分に帰ってくるという、
自然の循環のような感覚を持つことが大切なのだ。
by. 桜井章一氏
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