■手離す技術 ~20年間無敗、伝説の雀鬼の「執着転換力」~ -講談社-
人間の中から「悪」の部分を取り去るのは本当に難しく、
なかなか捨てられるものではないことを如実に物語っている。
この国を動かしている政治、経済、教育という分野を見ても、
「よし」とされるものの中に、
じつは人を悪いほうへと向かわせる要素がたくさん潜んでいる。
by. 桜井章一氏
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「悪」とされるものを手直しするのが難しいのであれば、
むしろ「よし」とされるものに手直しを加えるという
「発想の転換」が必要なのだと思う。
人はどうしても、「よし悪し」の
「悪し」のほうに目が行ってしまいがちだ。
でも、そこであえて「よし」のほうに疑いを持ち、
手直しを加えるという逆転の発想が大切なのだ。
by. 桜井章一氏
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悪いところを直そう、直そうとするのではなく、
いいと思っている部分を見つめ直し、
そこから悪いものを見つけ、改めていく。
世の中も、自分自身も、
人間がつくり出した「いいもの」というのは非常に怪しい。
その怪しさを嗅ぎとる力は、
「いいもの」に対して疑問を感じるところから得られるのである。
by. 桜井章一氏
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指導する立場の人間の心構えとして、
「いいことがあったら下の立場の人間のおかげ。
悪いことがあったら自分のせい」
そんな姿勢がなければならないと私は考えている。
この心構えのない者は、上の立場になってはいけない。
それが、上に立つ人間の最低限の責務であろう。
一方、上の立場なのに
なんでも下のせいにするのが「権力」である。
by. 桜井章一氏
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だから私は、
上に立つのであれば権力を持たずに立ちたかった。
そしてそれは、
「なにが起きても自分で責任をとる」ということを意味している。
いいことをすべて人のおかげとしていると、
不思議と生きていく中で「文句」や「不平不満」
といったものがなくなっていく。
by. 桜井章一氏
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下の立場の者を叱るとき、
まずは自分を正してから、
相手を叱る(正す)べきであろう。
常日頃から自分をどこかで律し、
正すように心がけていないと、
叱るべき時に叱れない。
そうやって自分を正していれば、
叱ったとき、相手にその気持は必ず伝わる。
逆に叱っても相手に気持ちが通じないのは、
自分のことを棚に上げ、
なにもせずに文句をつけているだけだからともいえるのだ。
自分を正しながら、叱るべきポイント、
叱るべきタイミングできちんと叱れば、
相手には電流が流れるように、
こちらの気持ちが通じるのである。
by. 桜井章一氏
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人間にバイオリズムというものがあるように、
世の中のあらゆるものごとは刻々と移り変わっている。
砂浜に打ち寄せる波のように、
一時として同じものはない。
そんな波が幾重にも重なることで、
この世は成り立っているのだ。
人生にはこのような好不調の波が必ずある。
そして人はえてして、
好調なときの自分というものを基準としてしまう。
ここに大きな問題が潜んでいる。
by. 桜井章一氏
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そんなマイナスの思考に囚われてしまうと、
人は柔軟な対応がとれなくなり、
どんどん不調の深みへとはまっていく。
そうならないためには、
「不調こそ自分の実力だ」と思うしかない。
世の中のあらゆることは移り変わり、
流れている。
人が「生きる」ということは、
そんな流れの変化に対応するということなのだ。
いまの時代を切り開いていくために必要とされているのは、
「不調こそ自分の実力」と思える謙虚さなのである。
by. 桜井章一氏
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「自我」や「自尊心」といったものが強くなりすぎると、
いわゆる「自己中心的」な考え方、振る舞いが表に出てくる。
“ジコチュー”な人は、
自分のことばかり考えているはずなのに、
自分の認識がなくなっている。
自分のことをそれだけ考えているのであれば、
自分を認識していて当たり前のはずなのに、
“ジコチュー”な人にかぎって自分をまったく認識していない。
自分のことを考えているのに自分をまったくわかっていない。
“ジコチュー”な人はそこが困ったところなのだ。
by. 桜井章一氏
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人間社会は「自」と「他」があることで成り立っている。
それなのに「自我」や「自尊心」が強くなりすぎると、
「他」の存在がなくなってしまい、
心のバランスも大きく崩れることとなる。
それがやがて、心の病につながってしまう。
それはけっして珍しいことではない。
by. 桜井章一氏
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権力者がそのほかの人間と
大きく異なるのかというとそうでもない。
なぜなら、権力欲というものは、
多かれ少なかれ誰もが持っている欲だからである。
by. 桜井章一氏
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「差」を「差」として認識し、
「差をつけることを楽しむ」のか、
それとも「差」を「違い」として捉え「違いを楽しむ」のか、
その認識の違いで権力欲の進む方向も大きく異なってくる。
人類史上に起きたさまざまな悲劇の多くは、
この「差別」が原因となっていることはいうまでもないだろう。
「違い」を楽しめるタイプの人からは、
嫌らしい権力欲というものは感じない。
差があって当然、違いがあって当たり前と思っているから、
「違い」を「違い」として楽しむことができるのだ。
by. 桜井章一氏
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差をつけたがる人はバカを見下し、
能力のない人間を排除していく。
バカも利口も仲間だということが理解できない。
「バカも利口も全部仲間」という感覚がないと、
自分の中にあるバカの部分を必死に隠し、
利口な部分だけを見せようとするようになる。
そのような表裏があるから人間なのであって、
その表の部分だけを見せようとすれば、
人間がどんどん歪になっていくだけだ。
そうならないためには、
表も裏もさらけ出して生きていけばいい。
by. 桜井章一氏
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そんな「違い」の中にはダメだと感じるもの、
無駄だと感じるものも当然あるだろう。
でも、そのダメなものや無駄なものにも学べることは必ずある。
そして、自分の人間の幅を広げてくれるのは、
そういったダメなものや無駄なものだったりするのである。
by. 桜井章一氏
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それほど「差別」というものは、
人間の中に深く根を張っているものでもあるのだ。
私は、「残念ながら差別はなくならない」と考えている。
なぜそう思うのか。
多くの人が「差」をつけることを能力とし、
それを追求する「競争」を「生きる」ことだと思っているからだ。
しかし、「差」ではなく「違い」という観点で捉えれば、
人に対する見方は大きく変わる。
そうやって「違い」を楽しめる人が多ければ、
世の中はまた異なる方向へと進んでいくのだろうが、
なかなかそれは難しい。
この世にはいろんな人間が存在するように、
この世にいろんな色が存在するように、
あらゆるものは違って当たり前なのだ。
by. 桜井章一氏
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