■手離す技術 ~20年間無敗、伝説の雀鬼の「執着転換力」~ -講談社-
「私に人を変える力などない」とも思っている。
他人の悩みごとや問題を解決するなんてことできやしない。
結局、人が変わるのはその人自身にしかできないことで、
私を含めて第三者にできるのは、
きっかけや気づきといったものを与えることだけなのだ。
by. 桜井章一氏
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得ては捨て、掴んでは手離して…
雀鬼流とはその繰り返しなのだ。
手離すことは「終わり」ではない。
手離すことから、
すべてが「始まる」のである。
by. 桜井章一氏
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学問にしろ仕事にしろ、
人は努力して手に入れたものを手離そうとはしない。
自分で手にした優越感に必死にしがみつこうとするから、
それが固定観念やこだわりとなっていく。
その固定観念やこだわりによって、
人は柔軟な思考、
臨機応変さといったものを失っていく。
そして、このこだわりを手離す、
捨てるというのが案外難しい。
優越感が強まると、
それはやがて「執念」となる。
この執念がさらに深まっていくと、
やがて「怨念」になる。
by. 桜井章一氏
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そもそも、人はなぜこだわるのか。
それは、世の中に「確証」
などというものはほとんど存在しないに等しいのに、
人間が確証を求めてしまうことに由来している。
人間は確証を得ることで安心する。
でも、いまの世の中、
どこを見渡しても確証なんてものは存在していない。
だから人間はなにかに頼りたくなるし、
すがりたくなる。
そうやって他者やなにかについての考え方への依存を強めていくと、
心がそこに囚われてしまう。
その「囚われ」が「こだわり」となり、
日々増大していくのだ。
by. 桜井章一氏
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「こだわり」というのは、
妄想の中に確証を見つけようとすることから生まれる。
そんなところから生まれる「こだわり」は、
人を精神の病の世界へと引きずり込む力を持っている。
by. 桜井章一氏
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私がこだわりを持たずに生きてこられたのは、
なにごとにも常に「半信半疑」
で対峙してきたからだ。
自分自身に対しては
「半分くらいの自信。そして半分くらいの疑い」、
他者に対しては「半分信じて半分疑う」。
「疑う」ことは悪ではない。
「疑問」は人間に変化を教えてくれるものだし、
なにかを疑うことでなにかを信じることもできる。
by. 桜井章一氏
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人間は、自分をコントロールすることはできても、
他者をコントロールすることはできない。
自分が「これだけの量」と思っていても、
それが他者にとってどれだけの量になるかは、
人それぞれまちまちである。
by. 桜井章一氏
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「≒」 (大体) の感覚で生きていたほうが、
何かと役に立つし、
下らないことに悩む必要もなくなる。
ところが、世の常識に囚われてしまった人たちは、
イコールが捨てきれない。
そうした人たちが後生大事にする制度や義務、
権利といったものは、
すべてこうしたイコールの発想から生まれたものでしかないのに。
すべてにイコールを求める社会は、
とても窮屈で冷たく、息苦しい。
この世に「完璧」などありはしない。
それなのに、すべてに完璧を求めてしまうから、
自分のミスも人のミスも許せなくなる。
by. 桜井章一氏
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元来、私は期待や見返りという感覚をいっさい持たずに生きてきた。
だから「大体」の感覚も自然に身についている。
「大体」の感覚を持っていれば、
そこに余裕が生まれ、
その余裕が人としての強さや可能性を広げていってくれる。
by. 桜井章一氏
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人は言葉によって生かされもするし、死にもする。
言葉ひとつで楽しくもなり、悲しくもなる。
喜怒哀楽という人間特有の感情をも持ったのも、
言葉があったからにほかならない。
言葉はたしかに便利なものだが、
その使い方や言葉との距離感は、
適度なバランスを保っていくことが大切だ。
言葉を獲得し、善悪、損得勘定、常識・非常識、
そういったものに触れるようになって、
人というのはむしろ、
人としての強さを徐々に失っていくのだろう。
基本的に「言葉」というのものは、
人間を悪くさせるものである。
そのことをしっかりと認識したうえで、
言葉というものを使っていきたい。
自戒も込めて、いまそう思う。
by. 桜井章一氏
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たとえば、あなたが誰かを許したとする。
でもそれは、相手を許しているのではなく、
結局のところ自分を許しているにすぎない。
「許さない」という思いをずっと心に持ち続けているのは大きな負担となる。
仮に誰かに対して
「絶対に許さない」と思っていても、
その重さはすべて自分にのしかかってくることになる。
その重圧を放っておくと自分自身が沈んでいき、
やがて息もできないほど苦しく、
辛い状態に追い込まれることになる。
by. 桜井章一氏
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もし、人が許せなくて自分が苦しい状況にあるのならば、
それは他人が自分を苦しませているのではなく、
自分自身が自分を苦しめているのだと自覚せねばならない。
そして自分を許せば、
心がすっと軽くなるはずだ。
by. 桜井章一氏
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自分を許し、
人を許せるようになるには、
そうした自分の無自覚な強い思い込や頑なな信念気づき、
それを解いて「チャラ」
にすることである。
執念深い人を見て、
「あの人、なんであんなに執念深いんだろう?」
「何で許さないんだろう?」
と思うのではなく、
「時分の中にもそういったところがあるんじゃないか?」
と思うことで、
自分の思い込みや信念というものを薄めていくことができる。
そうすれば、「あるがままの自分」
に気づくことにもなる。
そのうえで自分なりの答えを探していくことが大切な要素となってくる。
by. 桜井章一氏
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そうはいっても、
現代社会を生きていく中で、
あるがままの自分でいることは容易なことではない。
それでも、自分の中に
「山びこ」感覚を持つことで、
あるがままの自分に近づくことはできる。
まさしくこの「山びこ」
を自分自身の中に持てば、
自分の存在、自分の立ち位置がそのつど確認できる。
by. 桜井章一氏
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なにをするにしても
「やったらやりっ放し」ではいけない。
自分の生き方が「山びこ」のように、
微妙な間合いで自分自身に返ってくる。
自身の中にある「山びこ」は、
いわば時間差で自分自身の姿を
目の前に映し出してくれる鏡なのである。
そんな意識をちょっとでも持てば、
自分らしさというものを少しずつ取り戻すことができるだろう。
by. 桜井章一氏
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発した声と同時に返ってくるのではその声を確認できないが、
「山びこ」はじつに絶妙な間合いで自分のもとに返ってくる。
それと同じように、
「山びこ」感覚を持つにしても自分の中に
「いい間」をつくらなければ、
自分自身をうまく確認することはできない。
人間関係の間合い、
ものごととの間合いなど、
日々の暮らしの中でいろいろなものとの間合いを上手く保つようにすれば、
自然と自分の中に「いい間」が生まれてくる。
by. 桜井章一氏
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「山びこ」感覚を持つと、
自分の存在の確認はもちろんだが、
他者との一体感も感じられるようになる。
「山びこ」は、
自分と他者の間にある垣根のようなものを超越し、
「自分を許し、人を許す」
ことのヒントをわれわれに与えてくれるものなのである。
by. 桜井章一氏
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「人間の生とは始末に負えないものである」
この事実を誰もが分かっているから、
「始末に負えない部分」に目をつぶって放っておいたり、
あるいは隠したりするようになる。
そして、自分の始末の悪さは棚に上げ、
人の始末の悪さに対して文句をつけるようになっていく。
ヒールを批判しながらも、
心のどこかで自分自身を見学しているような感覚を誰もが持っている。
人目を気にする人ほど、
そういった感覚がとても強い。
つまり、ヒールを批判するということは、
自分自身を批判しているということでもあるのだ。
人間には表と裏があるように、
プラスもマイナスもある。
自分の中に負の部分を確認したとしても、
そこで気づかないふりをするのではなく、
「お、きやがったな」
「こんなところにありやがった」、
そんなふうにして、
極自然に負の部分を受け入れるようにしている。
by. 桜井章一氏
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