人生無敵の人。そして麻雀の無敵艦隊を率いる人。努力しない生き方とは!?

■努力しない生き方 -集英社-

私は、現代人の生き方を足し算的な生き方だと思っている。

足して、足して、どんどん足し続ける。
そんな足し算的な人生はここまで足せばOKというゴールはない。

人々のもっぱらの関心は、
この人生の足し算をいかに上手くやるか、
それによって成功やお金や幸福をどれだけ多くつかむか、
ほとんどそのことにつきるように見える。


by. 桜井章一氏

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足し算的な生き方は、
間違いなく行き詰まりを見せ始めているのだ。

では、そんな生き方に限界やさまざまなひずみがあるとすれば、
果たしてそれに代わるどんな生き方があるのだろうか。

それは足していくことを止めて、
反対に足したものを引いていくような引き算的な生き方だ。

正確に言えば、足そうとすることから「足そうとする力」
そのものを「抜く」ことで成り立つ別次元の引き算である。


by. 桜井章一氏

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この本では、「努力する」「頑張る」「求める」「つくる」
などといった足し算へと向かうさまざまな発想や行為を俎上に載せている。

そしてそれらがどれだけ無理で不自然なものを孕んでいるか、
それゆえ破綻しやすく、かつ人生に対していかに破壊的なものに
なりうるかを述べたつもりである。


by. 桜井章一氏

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二〇年間、私が無敗でいられたのは、
何よりも勝負にのぞむ私に足し算的な発想や行動がなかったからだと思っている。

あったのはいつも力を抜くことで成り立つ引き算の思考や行動であった。
それが勝負において一度も負けることをさせなかったのだ。

もちろん、期待してそう振舞ったわけではないが、
結果的に引き算的な勝負や生き方は足し算のそれと比べて
何十倍、何百倍もの厚みを私にもたらしてくれたと思う。


by. 桜井章一氏

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■そんなこと、気にするな 20年間無敗・伝説の雀鬼の「惑わされない生き方」 -廣済堂- さらに重要なことは、感謝だけでなく、 ...

私にはこれまで「努力した」という記憶がない。

麻雀だって「頑張った」という思いはまったくない。
「努力」して上手くなったという感覚がまったくないのだ。

これをこういうふうにすれば面白いなとか、
こんなふうにやれば上手くいくんだなとか、
ただ、そんな感覚で麻雀の牌をいつもいじっていた。

歯を食いしばって練習したなんていうことはなかった。


by. 桜井章一氏

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勝負を離れたところで難事がふりかかってきても、
精一杯努力してそれを乗り切ろうということはしなかった。

むしろ自分がどこまで可能性を持っているか試してやろうと、
挑むような気持ちで向かっていった。

そうしているうちに、
それは遊びのような感覚になっていくのである。

つまり、麻雀にしろ、何にしろ、
そこにあったのはいつも「努力」ではなく「工夫」だったと思う。

「工夫」があれば何事も楽しくできるのだ。


by. 桜井章一氏

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「努力」をしようとすればかならず余計な力が入る。
練習して上達を続けるには力が入っていてはダメだ。

スポーツでも「努力」という感覚で力を込めて練習すると、
視野が狭くなって思うように上達しないし長続きしない。

「努力」というのは往々にして「間違った努力」
になりやすいのである。


by. 桜井章一氏

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努力という感覚で頑張るとどこか不自然に力が入って、
かならず嘘っぽくなるものだ。

私はそんな嘘っぽさに違和感を覚えてしまう。
仕事でもスムースに進めるコツはいかに力を入れないかである。


by. 桜井章一氏

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■手離す技術 ~20年間無敗、伝説の雀鬼の「執着転換力」~ -講談社- 思考の世界に深くはまってしまうと、 必然的に思い込み...

つまり成果のあるなしで「努力」の値打ちが
一八〇度変わってしまうわけだ。

真剣に頑張ってきたことが無駄だったと感じるような
「努力」は嘘っぽい。

やってきた「努力」が無駄だったと思えば、
その人がみずから自分の「努力」は嘘っぽいものですと言っているようなものだ。


by. 桜井章一氏

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「頑張ったけどダメだったよ」となっても
それでOKではないか。

ダメでもどこかに納得感のある「努力」はいいと思う。

そのような「努力」は妙な力みがあまり入っていないし、
どこかで「工夫」になっていると思うからだ。

このように成果を目的とする努力はかならず力が入るし、
どこか嘘っぽいものになってしまう。


by. 桜井章一氏

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努力は成果を上げるためという功利主義的な努力観が、
大きな嘘っぽさを社会のあちこちにつくっているような気がする。

さらに「努力信仰」を補強しているのが、
お金や権力といった「力」への憧れである。


by. 桜井章一氏

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「力」が入るとたいていあまりいい結果は生まれない。
仮に目的を達成してもどこかにひずみを生むものだ。

私はふつならここで「力」を入れないと、
という局面では、「力」を抜くようにする。

「力」が抜けているほど、
物事はスムースにいくものだ。


by. 桜井章一氏

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■シーソーの「真ん中」に立つ方法 -竹書房- 目の前のひとつだけをやるようにします。 ひとつができたら次のふたつめ。 ...

変に気張って「努力」なんかしなくてもいいと思う。

「力」が入っているな、
と思うときは自分を疑った方がいい。

人生は、「努力」すればいい結果が出るとは限らないが、
「工夫」すればおのずとそうなるものである。


by. 桜井章一氏

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私は麻雀を打つとき、牌を持たない。

正確に言うと、
持たない感覚で牌を持って打っている。

牌を持たない感覚というのは、
心に何も持っていないときに持ち得るものである。


by. 桜井章一氏

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逆に牌を持っている感覚であれば、
人は心に何かを持っている。

勝ってやろうという欲、
屈辱からくる負かしてやろうという恨み、
自分を誇示しようという欲、
さまざまな思いを持っている。

しかし、そんなものは勝負においては一切余計である。
すなわち打つ麻雀が不自由になるのだ。


by. 桜井章一氏

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