学問をすれば格好いいというのは、嘘である。

■男の器 ―――常識に囚われない生き方 -角川oneテーマ21-

分をわきまえるというのは自分を知るということである。

己を知っていれば、身の丈以上になることも、
身の丈以下になることもなく、
それにふさわしい行動がとれる。


by. 桜井章一氏

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なぜ縄文人は現代人より、
分をわきまえているのだろう?

一番目に見える違いといえば、
縄文人は現代人より学がない、知識がない、ということだ。

だが知識がない代わりに、
彼らは自然と密接なつき合いができる体を持っていた。


by. 桜井章一氏

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学問をすれば、人はある意味、
馬鹿になるのである。

自然からどんどん離れ、
自然の生き物としては愚かな存在になっていくからだ。


by. 桜井章一氏

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愚かな存在は「粋」などまとうことはできない。

つまり、学問をすれば、人は「粋」から離れ、
どんどん無粋な存在になっていく可能性を学んでいる。


by. 桜井章一氏

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「学問やらなかったらもっと立派だったのに……」という言葉は、
現代人が信じてやまない絶対的な価値観をそのままひっくり返すような、
まことに深いものがある。

学問をすれば格好いいというのは、
嘘である。


by. 桜井章一氏

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運は努力の過程に訪れる。雀鬼・桜井章一氏が語る「ツキをもってる人」の共通点とは?20%の心の余裕と、自分自身を気持ちのいい人にする哲学を解説します。

学問をして、知識が増えれば、
己の「分」はいっそうわからなくなる。

それが、どうやら、学問と「分を知る」ことの、
さらには「粋」との宿命的な関係のようである。


by. 桜井章一氏

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「忙しい、忙しい」ということをしょっちゅういっている人は、
暗に「自分は人から必要とされている」ということをいいたいんだと思う。

すなわち自分は価値ある人間だと認めてほしい気持ちがあるのだろう。

そんなことを自らいいたいというのは、
野暮といえば野暮である。


by. 桜井章一氏

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人は誰しも「素」になって生きるべきだと思っているからだ。

いっぽう、失言や暴言をしがちな人物というのは、
結局、素をどこかに出していると思う。

少なくとも嘘が混じったつくりものではない、
よくも悪くも人間的な味わいがある。


by. 桜井章一氏

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人は素になっているときが一番楽なのだ。

素を覆い隠して絶え間なく演技をしていると、
心には知らず知らずに負荷がかかってくる。

そうやって心を疲弊させた人たちの一部が心理カウンセラーや占い師のところへいって、
自分の素をさらけ出したりするわけだ。


by. 桜井章一氏

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「あるがまま」という素の状態で、
素早く的確に動くことができれば、
それで申し分ないではないか。

わざわざ人生を「演じる」ことなど、
さらさら必要ないと思う。


by. 桜井章一氏

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桜井章一氏の格言から、より良い人生を生きるためのヒントを解説。「心」を込めたシンプルな生き方、そして自分自身の「心ある大人」になることの重要性を伝えます。すべては行動することから始まると語ります。

「男はわざわざ道楽に走るな」といいたい。
私は「遊び」があればそれで十分だと思う。

道楽と遊びとどこが違うかといえば、
道楽は基本金のかかるものであり、
遊びは金のかからないものという点にある。


by. 桜井章一氏

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明らかな遊びの形態をとっていなくても、
遊びの感覚がまじっていればそれは遊びになるのであるか。

だから私の場合は仕事でも仕事と思ってやることはない。

こういうボールを投げれば、
このあたりに返ってくるだろうなという相手の予測を裏切るところへ
ボールを返してみたりする。

そこから思いもよらぬ展開がはかれることもある。


by. 桜井章一氏

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遊びというのはちょっとした工夫や思いつきで可能になる。

それは、あくまで自分が積極的に考えたり、
動くことで成り立つものである。

道楽を楽しむようになると遊びをつくりだす感覚は衰えていく。
「道楽に走ると本質的な遊びを忘れてしまう」という逆説が生まれるのだ。


by. 桜井章一氏

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意地を張るというのは、
子どもが駄々をこねているみたいなもので格好のいいものではない。

そもそも意地を張っていることの九割ぐらいは間違っているもので、
結局、意地なんて通さなきゃよかった、となるのがオチなのだ。


by. 桜井章一氏

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信念を持つなんてことは、そんなにいいものではない。
信念を持つことでどれだけ多くの人が挫折感を味わったことか。

この世で変化しないものはない。


by. 桜井章一氏

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