■そんなこと、気にするな 20年間無敗・伝説の雀鬼の「惑わされない生き方」 -廣済堂-
困難に襲われた時、
どうせ避けて通れない苦しみなら、
真正面から取り組まず、
いっそ楽しんでしまったほうがカッコいいし、
そのほうが意外にうまくいったりすることがわかっただろうか。
「格好」とは型であり、
形である。
他人が「カッコ悪い」
と思ってやらないことをすること、
それが「カッコいい」と私は思うのだ。
by. 桜井章一氏
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カッコいい、カッコ悪いの「格好」
が型であり、形であるとすれば、
「カッコいい」というのは、
型や形が洗練されて美しいのではなく、
型や形にこだわらないことだ、
と私は思う。
言い換えれば、
まるで粘土細工のように、
その時その時に合わせて、
どんな型、形にもなるということだ。
by. 桜井章一氏
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なぜ、人は格好にそんなにこだわるのか。
それは、人目を気にするからである。
多くの人は、
自分のなかの負の部分を確認すると、
それを隠そうとしたり、
打ち消そうとしたり、
あるいはそれができなければ、
気づかないふりをして放っておいたりする。
それでは、結局、
自分が追いつめられてしまう。
by. 桜井章一氏
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自分の負の部分を確認したら、
むしろそれをまわりの人たちにさらけ出すのだ。
ある意味、あなたの負の部分がリトマス試験紙になって、
相手の本性を見抜けるかもしれない。
それができるのも、
自分が馬鹿になれるからである。
誰だって、馬鹿はしたくない。
恥ずかしい姿は見せたくない。
でも、私は、
あなたにあえて馬鹿をしてほしいのだ。
by. 桜井章一氏
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人生はドラマだ。
ドラマであれば、
悲劇もあれば、
喜劇もある。
馬鹿が主人公のドラマがあったっていいだろう。
あなたが馬鹿をすることは、
あなたが主演を演じている時なのだ。
こんなカッコいい瞬間はない。
カッコ悪いことをどんどんやろう。
他人から「あいつは馬鹿だね」
と言われることを粘り強く続けよう。
その時あなたは、
とても「カッコいい」のだから。
by. 桜井章一氏
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私にはこれまで
「努力した」という記憶はない。
まして、「一生懸命」などという言葉は、
私にはまったく似合わなかったし、
いまでもそんな言葉を見るだけで、
鳥肌が立つくらい嫌な気持ちになる。
by. 桜井章一氏
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それに、「一生懸命」とか
「努力」という言葉は、
どこかウソっぽい。
「一生懸命」や「努力」には、
お金や権力、勝利といった「力」
への憧れが見え隠れしているからである。
つまり、最終的には
「報われなければ、一生懸命も努力も単なる時間のムダ」
ということなのだ。
by. 桜井章一氏
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だとしたら、変に気張って、
努力なんかしなくてもいいということだ。
どうしても何か努力したかったら、
逆に「力」を抜く訓練をしたほうがいい。
何事も「力」が抜けているほうが、
物事はスムーズにいく。
by. 桜井章一氏
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それには、つねに、
ありのままの自分、力の抜けた、
「素」のままの自分でいることだ。
だが、本当は括弧の外にいるほうがはるかにいい。
括弧の外にいれば、
外部から全体を見ることができるし、
「自分はいったい何をしているのだろう」と、
不自然な自分の姿に気づいたりするからだ。
どんな状態でも、
そうしたリラックスした自分を保っていること、
それがまた、”カッコいい”生き方につながっているのである。
by. 桜井章一氏
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素の自分でいられるのがいいのには、
もうひとつ大きな理由がある。
それは、「他人の評価」
を気にしなくなるからだ。
人は誰でも、大なり小なり、
他人からどう思われているかを気にして生きている。
だが、私に言わせれば、
そういう他人の評価は、
それぞれ人によってちがうから、
まったく気にする必要はないと思う。
by. 桜井章一氏
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人間はみんなそうなのだ。
自分のこともわからないのに、
他人のことがわかるわけがない。
だとしたら、「誤解される」
ことを恐れるより、
自分がわからない自分の側面を楽しんだらどうだろう。
そして、あえて
「誤解される人」になるのも、
カッコいい生き方ではないだろうか。
by. 桜井章一氏
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「いいことがあったら下の立場の人間のおかげ、悪いことがあったら自分のせい」
という姿勢を貫いているからだ。
この心構えのない者は、
どの世界でも決して上の立場になってはいけないと私は断言しても良い。
by. 桜井章一氏
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いかに多くの人に恵まれて、
その結果、自分のいまがあるかということに気づく。
すると、自然に感謝の念が湧いてくる。
叱るなら、まず、
自分を正してから叱れということだ。
常日頃から、
感謝するところは感謝し、
自分の悪いところは律しておく。
そうすれば、いざ叱る時に、
心が通じる。
by. 桜井章一氏
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私自身、幼い頃から無茶を繰り返してきた。
子ども心に、
誰もできない無茶をやることが、
勇気だと思ったからである。
無茶は人のやらないことを自ら体験することであり、
それが「人のため」になることだってないともかぎらない。
言い換えれば、
「最後の手段」だとも言えるかもしれない。
ところが、同じようなことをしても、
無茶苦茶は明らかにひとりよがりで、
人に迷惑をかける可能性も高い。
だから、無茶は許されるが、
無茶苦茶は許されないのである。
by. 桜井章一氏
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その仕事をする人の考えや生き方がカッコよければ、
その仕事はカッコいい仕事なのである。
日本語の通じない国で、
ひとりで生きていき、
ダメならすぐにクビを切られるという状況のなかで活躍する。
そのことは、ある意味、
命がかかっていて、
カッコいいと思う。
by. 桜井章一氏
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