私にとって「努力」は、あくまで「工夫」なのです。何事も工夫だと思えば、「努力している」という思いは消えて楽になる。「努力を工夫にしちゃえば楽しみになる」

■マイナー力 ~「負け」が「勝ち」になる生き方~ -竹書房-

私にとって「努力」は、あくまで「工夫」なのです。何事も工夫だと思えば、「努力している」という思いは消えて楽になる。「努力を工夫にしちゃえば楽しみになる」

そんな感覚を磨くには、
山の中でも土の中でも海の中でもいい。

自らが自然の中に入り、
自然というものに浸って、
普段からもっとそっちへ感覚が向くようにすることです。

そうやって自然を身体で素直に感じることから、
エコロジーは始めるべきなのです。

経済が先へ先へと行くことによって進歩していると考えられていたものが、
実はいろんな部分で人間の退化につながっていて、
それがさまざまな問題の原因になっている……
そのことに、みんな気づき始めているのでしょう。


by. 桜井章一氏

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リサイクルは、
たんにモノを大切にするようになるだけじゃなくて、
他人とのつながりも優しさの感覚で広げられるようになります。

「これを誰かがまた使えればいいね」
「次の人もそれを使えるように」
という感覚が、
リサイクルにはあるからです。

モノを「継続する資源」として考えることは、
人間関係のあり方にもいい影響を与えるのです。

私は、不利な条件の中で遊ぶほうが好きです。


by. 桜井章一氏

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それは単純に、
「簡単なほうを選んでも面白くない」
というのが大きな理由です。

メジャー感覚、
マイナー感覚で言うと、
便利で簡単なほうがメジャーで、
不便で難しくて面倒くさいほうがマイナー感覚と言えるでしょう。

人が人に与える「資格」という感覚が好きじゃない。

その工夫こそが遊ぶ醍醐味であり、
楽しい過程となるのです。


by. 桜井章一氏

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ところで、
私は麻雀を打ったり仕事をしたりするとき、
努力をしている感覚は一つもありません。

私は努力という感覚が嫌いです。

私にとって「努力」は、
あくまで「工夫」なのです。

何事も工夫だと思えば、
「努力している」という思いは消えて楽になる。


by. 桜井章一氏

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努力を工夫に変えると面白さが入ってくるから、
努力すらも楽しみになってくる。

「努力することを楽しみなさい」ということではなく
「努力を工夫にしちゃえば楽しみになる」ということです。

何も持っていなかった子どものころの感覚に還って、
工夫を考える作業は単純に楽しいものです。

そういうもの(携帯、パソコンなど)をやり始めれば、
何がしかの「便利」を享受できるのでしょうが、
その便利にとらわれていくと、
今度は私が本来持っている自然感覚が削れていくような気がする。


by. 桜井章一氏

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■運を支配する -幻冬舎新書- 刻々と変化してやまない流動的な世界では、 そうしてひかれた線は次々と意味をなさなくなり、 ...

便利さと本能的な自然感覚とが引き換えになっているのです。

世の中には、
「不便を選ぶ」という選択でしか、
得られないことがあるのです。

それは自然に対する素直な感覚であったり、
純粋な気持ちで付き合える人間関係であったり、
「便利」にとらわれているときにはよく見えなくなってしまうものです。

不便を選ぶことで得られるものは、
少なくないのです。


by. 桜井章一氏

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マイナー感覚を持つには、
地に足をつけて生きることが大事です。

文字どおり、
地面に足をつけることが大事だということです。

たとえば土の上で暮らすようにできている動物が、
足の裏で土を感じる感覚をなくしてしまっては、
動物としての生命力は弱ってしまいます。

人も同じで、
自分の足の裏で土を踏みしめ、
地面の柔らかさや温かさを感じることが大事なのです。


by. 桜井章一氏

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生き物として地に足をつける感覚を失うと、
糸の切れた凧のように、
もしくは根なし草のようになってしまいます。

地に足をつけて歩かないことは、
文字どおり精神的にもぐらついて不安定な状態を生み出します。

少しでもそうならないためには、
「地に足をつけて歩く」感覚を身体のどこかで感じておくことが大事なんだと思います。

昔から「四里四方に病なし」という言葉があります。


by. 桜井章一氏

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人間は本来、
四里四方で生きるのがいいのです。

四里四方の中で生活をまかなえばいい。
それ以上広げることはないわけです。

四という数字は一つの世界を表しているのかもしれません。

私は、人間関係も四里四方の感覚でいいと思う。


by. 桜井章一氏

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何も無理に広げていく必要はないのです。

しかし、今はグローバルなどと言って、
あまりにも外に向かって広がり過ぎていると思います。

地域のコミュニケーションがあるからこそ、
外から入ってくる外敵に敏感になって、
街全体が住民を守るバリアの役目をはたしていました。

でも、そんなことはなくなってしまいました。


by. 桜井章一氏

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それはつまり、
四里四方の生活スタイルが失われることによって、
日本人の美徳とも言える「恥の文化」さえも失われてしまったということです。

四里四方の地域社会の中にいるからこそ、
そこかしこに知っている人おかげで、
恥ずかしいことをやったらマズイという感情が湧きます。

人間というものは、
誰も自分のことを知らない世界に行くと、
「恥」がなくなって卑怯なことをしてしまったり、
場合によっては犯罪的な行動を平気で取ってしまったりするものです。

四里四方で生活するというと、
自分の世界を狭めると思われがちです。


by. 桜井章一氏

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■勝負の格言 -宝島SUGOI文庫- 勝負に強い人が「手の内を見せる」ことも 靴や服を脱いでいくのと同じで、 そこ...

しかし、そうではないと思います。

逆に地域の人間関係の幅が広がり、
奥行きが深くなるのが四里四方主義なのです。

物事には、
何でもそれに適した”いい頃合””いい按配”があるものです。

人の生活は、
グローバリズムという土俵ではどうにも落ち着きが悪いのではないでしょうか。


by. 桜井章一氏

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その点、四里四方の感覚は、
人が自然と導き出した”いい頃合”なのでしょう。

今はそんな環境ではありませんが、
少なくとも心のどこかで四里四方という感覚を持っていることが大事なんだと思います。

「人間が暮らすには四里四方でいい」ということと同様に、
組織や人間関係も、
それに見合った適度な大きさがあります。

みなさんは、
何事も大きく広げることは良いことだと思うかもしれませんが、
それは違います。


by. 桜井章一氏

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なぜなら広げ過ぎると、
本来の目的や姿とは変わってくるからです。

そしてそこには必ず「嘘」が混じってくる。

経済活動としては広がるだけ広がったほうが「儲かる」ものになるかもしれません。

しかしその規模が大きくなるにつれて、
開祖の精神とは離れ、
本来の形とは違ったものになっていくことも少なくはありません。

これは「広がる」ということが持つ、
根源的な定めです。


by. 桜井章一氏

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