■わが遺言 ~勝負の鬼が辿りついた50の境地~ -ポプラ社-
今の世の中には私から見て「かっこいい」と思える大人はほぼ皆無に等しいからである。私は目上よりもむしろ目下の人間にこそ”敬う”気持ちで接するべきだと思っている
今の若い人たちは「死ね」とか「殺す」
という言葉を簡単に使うというが、
そういったひどい言葉遣い以外にも、
優位な立場を利用した横暴な物言いなど、
相手を傷つける言葉遣いが世に氾濫しているように思う。
権利を主張しないと損だという考え方。
アメリカは訴訟社会と言われるが、
その流れがそのまま日本に来ているような気がする。
自分のことばかりを考えているような心に余裕がなく、
視野の狭い人だらけのこの社会において、
今後このようなクレームがさらに増えていくに違いない。
by. 桜井章一氏
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多くの人が暴走族を相手に尻込みをしてしまうのは、
文句を言おうものなら返り討ちにあい、
袋叩きにされる可能性があるからである。
そんな利己的で自分勝手な考え方に囚われないようにするには、
何かことが起ったら「自分だったらどうなのか?」
と立場を置き換え、
「自分事」として考えてみることがとても大切だ。
悪質な事件の報道などを目にした時、
「私はそんな悪いことはしない」とか
「酷いヤツがいたもんだ」
と他人事として捉えるのではなく、
「自分にもそういうところがあるのではないか」
と思いをいたすのはとても重要なことである。
あなたは大人ですか?
子どもですか?
by. 桜井章一氏
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そう問われたら私は迷わず「子どもです」と答える。
世に言う”大人”なんかには絶対になりたくない。
私は世間的な”大人”の雰囲気に触れると、
すぐに”子どもの領域”に戻りたくなってしまう。
ここぞ、という時に頼りになるのが父親である。
by. 桜井章一氏
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だから私は「ここぞ」という時以外は、
子どもたちと同じ”子ども”として、
一緒に遊び、ともに楽しい時間を過ごしてきた。
大人は何かあるとすぐに酒を飲む。
だが、私は酒がまったく飲めない。
だから子どもの遊びをそのまま、
今も楽しんでいる。
少なくとも私の子ども時代のように
「かっこいいなぁ」と思いながら大人を見ている子どもはそれほどいないと思う。
by. 桜井章一氏
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なぜなら、今の世の中には私から見て
「かっこいい」と思える大人はほぼ皆無に等しいからである。
今の大人は世間的な価値観に合わせて大人になった人が多いと思う。
しかし、私の子どもの頃の大人は
「何かあったら体を張れる人」
が少なくなかった。
それも自分のためではなく、
まわりの人たちのために体を張る。
by. 桜井章一氏
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私はそんな大人たちを見て、
「男とは」「大人とは」
ということを知らず知らずのうちに学んでいたように思う。
“傷だらけ”といっても、
流血するような肉体的な傷ではない。
電車に乗っていた人たちはみな心に傷を負っていた。
私には「苦しいよ~」「痛いよ~」
と訴える彼らの心の声が確かに聞こえた。
by. 桜井章一氏
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今の社会は言葉や文字などによって、
人々がお互いに心を、
精神を傷つけあっている。
誰かを傷つけ、
そして誰かに傷つけられ、
人々の傷は一日、
また一日と深くなるばかりである。
心の傷は目には見えない。
だから、ほとんどの人は誰かを傷つけても、
あるいは傷ついている人がそばにいてもまったく気づかない。
by. 桜井章一氏
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「私の言動によって誰かを傷つけているかもしれない」。
常日頃からそんな風に思い巡らすことで、
他人の心を傷つけることは格段に減っていくはずである。
日々増大を続けるストレスのはけ口を求める行為が攻撃となって現れている。
社会の中に存在する色々な仕組みや制度に晒されることによって、
人々の中のストレスが増大しているのだ。
by. 桜井章一氏
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知らず知らずのうちに世の人々は
「優秀な人」たちのつくりあげた常識やモラルといったものに縛り付けられている。
それぞれが「私は民主主義国家の中で自由に生きている」
と思っているかもしれないが、
私には街を歩くほとんどの人ががんじがらめになって苦しそうに喘いでいるようにしか見えない。
縛り付けられたり、
あるいは抑え込まれたりすれば、
ストレスや鬱憤、不満はたまって当然である。
そうやって溜まりに溜まったストレスが、
マグマだまりに溜まったマグマが噴火によって一気に吐き出されるように、
「他人への攻撃」として現れているだけなのだ。
by. 桜井章一氏
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その時(誰かの攻撃に晒されたとしたら)は相手の攻撃が常識の範疇、
誰にでも理解できるようなことから引き起こされていることなのか、
それとも”狂”の世界から発せられているものなのかをまずは察する必要がある。
“狂”から発せられているものならば、
無理に受け答えするのは止め、
とりあえず”聞く”ことに徹するといい。
被害者意識の強い人も、
妄想の世界に片足を突っ込んでしまっている状態であるから、
そういった人に応対する時も細心の注意を払う必要があるだろう。
響きのいい言葉、
聞こえのいい言葉にはどこかに落とし穴がある。
by. 桜井章一氏
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聞こえのいい言葉も、
意味の分からない複雑な言葉も、
まったく信じてはいけない。
それが現代社会を生きていく上での鉄則なのである。
自分たちの尊厳を守るとして、
世界各地で宗教間の争いが絶えず続いている。
誰かを尊敬などする必要はまったくない。
by. 桜井章一氏
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ただ、尊敬から”尊”を抜いた後に残る
“敬う”という感覚は人間関係において忘れてはならない、
とても大切なものだと思う。
だから”敬語”はとても大切だし
「相手に敬意を払う」ことも重要だろう。
お互いに相手を敬う言葉を使っていれば、
争いごとはそうそう起きない。
私は目上よりもむしろ目下の人間にこそ
“敬う”気持ちで接するべきだと思っている。
by. 桜井章一氏
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だから私は孫にも敬語で接する。
まだ幼い孫の中にも相手を敬うという気持ちが芽生えてくる。
大人が敬う気持ちで接すれば、
子どもは”敬う”ということを肌で実感する。
そんな上辺だけの尊敬の念を持つくらいなら、
“尊敬”などの概念は捨て、
周囲の人たちを”敬う”
気持ちだけ持てばいい。
by. 桜井章一氏
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この世に”尊”などは必要ないのである。
ひとつの道を突き詰める専門家を目指すと、
どうしても考え方が偏ったり、
凝り固まったりしてしまい、
心身ともに柔軟に生きることができなくなってしまう。
だから私は道場生たちには柔軟性を少しでも取り戻してほしいから、
「専門家よりも万能家を目指しなさい」
とよく言っている。
人間にはどんな人にも可能性というものが秘められている。
by. 桜井章一氏
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