■「育てない」から上手くいく -講談社-
子どもを楽しませ、喜びの機会が多いほど、子どもの喜びの感情は伸びやかに育まれることでしょう。私が努力をなぜ敬遠するかというと、努力は「努めて力が入るもの」だからです
そんな喜びの感情はひとりではなく、
たくさんの人と共有してこそ、
さらに大きくなるものです。
雀鬼会の道場生たちと私も、
いつも喜びを共有しています。
道場ではそういうことをいつもやっているので、
道場生たちといると何もしていなくても、
喜びの気持ちが感情の底にいつもある。
その思いは彼らも同じだと思います。
by. 桜井章一氏
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子どもを楽しませ、
喜びの機会が多いほど、
子どもの喜びの感情は伸びやかに育まれることでしょう。
子どもがそうやっていつも親と喜びをともにするような生活ができれば、
本当に理想的なことです。
そんな環境に育てば、
自然と喜びを知る子どもになり、
やがて周囲にも楽しさを与える人に間違いなく、
なっていくと思います。
しかし、私は努力が嫌いです。
by. 桜井章一氏
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私は麻雀が上手くなりたいと思って努力したことはありません。
日々、「ここはこういうふうに打ったらよかったんだな」とか、
「あの場面ではこうしてもよかったかな」という感じで、
楽しさと工夫を考える喜びだけがあったような気がします。
つまり、はたからは努力という形をとって見えるかもしれませんが、
私の中ではひたすら楽しいという感情をもって麻雀と向き合っていたにすぎないのです。
私が努力をなぜ敬遠するかというと、
努力は「努めて力が入るもの」
だからです。
by. 桜井章一氏
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私は妙な力が入ると、
どんなものでもそこに嘘や無理が入ってくると思っています。
だから、力が入る努力という行為は、
結果上手くいっても、
どこかにいびつなものを残してしまうのです。
うんうん力を入れて苦しんで、
子どもと向き合っても子どもも辛くなるだけです。
子どもにそういう努力を押し付けたり、
力を入れて教えてはいけない。
by. 桜井章一氏
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そうではなく、
勉強でもスポーツでもいかに工夫して楽しくできるかということを、
大人が率先して見せていくことです。
努力しないで夢中になれるものは、
どんなものでも間違いなく伸びます。
しかし、親は子どもに生きていくよすがとなる知識や技術を教える以前に、
どんな状況でも生きていける智恵や人間力を身につけるよう導くべきだと思います。
それよりは、子どもがいろいろなことに気づいて、
臨機応変に行動する力を養うにはどうすればいいかということをもっと考えていくべきなのです。
by. 桜井章一氏
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つまり、頭でっかちにさせる知識や技術をどんどん子どもに背負わせるのでなく、
変化に応じて柔らかく生きていくために、
いかに子どもの荷物を軽くするかを考えるのです。
でも、余計な荷物など捨てて、
心を軽くして生きるほうがいいに決まっています。
困難なことにぶつかっても、
知識や技術で苦労して解決するよりも、
智恵や人間力でもって気軽にこなしたほうがいい。
子どもは大人の価値観に染まっていないので、
本来身軽です。
by. 桜井章一氏
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そうした重い荷物をずっと持っていると、
それが思考や体に「癖」として現れてきます。
自然と人を見下すという思考の癖が言葉や手、
物腰に現れるのです。
私のいう体の癖とは、
こういうことです。
でも、長年の習慣で身につけた癖はなかなか直りません。
by. 桜井章一氏
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そういう青年を見るにつけ、
本当に親心があるなら、
子どものためになると思ってひたすら知識や技術を背負わせるのではなく、
軽やかに伸びやかに生きられる道もあるんだよということをもっともっと示して欲しいと思ってしまいます。
by. 桜井章一氏
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「はやく自立しなさい」
と親が子どもに向けて言うとき、そこには、
「社会から評価される人間になりなさい」
という意味が込められています。
「人に笑われるぞ」
しかし、それは他人を口実に親が子どもを笑っていることでもあるのです。
どんなものにもプラスとマイナスがあります。
どういうことかといえば、
自立が強調され過ぎて、
「ひとりでがんばらなければいけない」
という思いになり、
そこから「誰にも頼ってはいけない」
という閉じた考えに陥り、
やがて「ひとりぼっちの寂しさ」を抱え始め、
心を蝕んでいくということが起きるのです。
by. 桜井章一氏
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親元から自立して自分の力で生活しようとする。
それは大事なことです。
自分という存在は、
他人との関係でようやく生きられる。
いわば「自他立」で生きている。
しかし、他人を排除して自分ひとりで生きることが自立だと間違ったとらえ方をついされがちです。
by. 桜井章一氏
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支え合う仲間を必要としない自立であれば、
それは結局、
人を追い込んでしまうのです。
つまり、人は誰しもすがって生きていかざるを得ない。
だからこそ、バランスのいい「いいすがり方」
を覚えることが肝心なのです。
生命について根源的に考えれば、
人間が完全に自立して生きることなどありえないことがわかります。
by. 桜井章一氏
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たとえば、人は太陽や水を自然がただで恵んでくれているからなんとか生きていけるわけで、
これひとつとっても人は何かに依存して生きていかざるを得ない存在だということです。
「自立しろ」と子どもの尻を叩く親は、
子どもと比べて「自立している」
と思うかもしれませんが、
会社がなければ給料は支払われないし、
農家の方がいなければ、
ご飯は食べられません。
いわば自分以外の他人なくして一日も生きられない。
どんな人間でも、
何かに依存せずには生きていけないのです。
by. 桜井章一氏
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ですから人間に真の自立など一生ありえないわけです。
でも、日常をよくよく振り返ると、
「とんでもないな。貰いっぱなしじゃないか」
と気づいたのです。
人の優しさやいたわり、
心遣いをいただいてばかりいる自分にあらためて気づいたのです。
世の中を自分の手で切り開こう。
by. 桜井章一氏
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しかし、それが「自分の力だけで成し遂げなければならない」
という気負いになって目的に向かって行くとき、
それは人を寄せつけない厳しさとして周囲に映ります。
気がつけば、部下はいても仲間のいない状態になっているのです。
自立というものは、
結局それをどう扱うかが問題なのです。
自立が何より大事と決めつけている人は、
自分の努力のおかげで自らの人生が成り立っていると思っています。
by. 桜井章一氏
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