■「育てない」から上手くいく -講談社-
その方の人生の辿り方が体全体から伝わってくるからです。それに比べて果たして、自分は年齢と呼べるようなものを人生に刻んできただろうか
だいたい人を育てるということが根本的にありえるのだろうかと思っています。
たとえば「家庭菜園で野菜を育てる」
といっても、
人間は何も育ててはいません。
太陽と水と空気という自然の恵みがあって、
野菜が自らの力で育っている。
もし人に何かできることがるとすれば、
「育ち」をほんの少し手伝わせてもらうだけです。
by. 桜井章一氏
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私は「育てる」ことより、
人と接する中で生まれる「導き」
がありさえすればいいと思っています。
「導き」とは言葉を変えれば、
はっと気づかされる「気づき」
の体験です。
その方の人生の辿り方が体全体から伝わってくるからです。
それに比べて果たして、
自分は年齢と呼べるようなものを人生に刻んできただろうか。
by. 桜井章一氏
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そんな思いにもふと駆られる。
自分の今いる場所に気づかされ、
これまでの生き方に気づかされる。
けれども、私にとっては、
それは「きれいごと」の苦労です。
きれいごとだから、
地位や名誉があっても、
その人と接して感じ入り、
何かをはっと気づくようなことにはならない。
by. 桜井章一氏
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でも、こうして体を使って世間の評価とは違うところで苦労して生きてきた人に触れたとき、
ふっと我が身を振り返るような気づきを得られる。
こういう「気づき」が教育には大事だと思うのです。
私と何気なく話をし、
触れ合う時間を過ごす中で、
一〇〇の中のひとつを呑み込んで、
自分で消化し、
その子が「なるほど」と思う瞬間があったとき、
そこで初めて気づきは生まれる。
あくまで自分で気づき、
納得しないことには変わらないのです。
by. 桜井章一氏
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きっかけになるくらいのボールはいくつか投げたかもしれませんが、
あくまでそれは本人が何かのきっかけに、
私の行動やしゃべっていることに自分の中の何かが触れる
「気づき」をしただけのことです。
教えよう、育てようと上から一方的に与えられたものは、
簡単に子どもにしみこみませんが、
子どもが感じた「気づき」は体の深いところで理解され、
血や肉になるものです。
このように、教育とは上から「育てる」という意識でするものではなく、
体を触れ合わんばかりに接する中で与えられる
「気づき」によってなされるべきものではないでしょうか。
善い教育をすれば子どもは善く育ち、
悪いことを教えれば、
悪く育つ。
by. 桜井章一氏
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しかし、教育とはそう単純なものではありません。
そうはっきりと白黒に分けられるものではないと思います。
もし、そういう考えが成り立つなら、それは
「大人は子どもより物事の分別がついている。
だから何が正しく、何が善いかを子どもに教えることができる」
という条件と、
「子どもは素直に教えられることは受け入れる」
という条件がともに一〇〇%の状態で重ならなければいけないでしょう。
しかし、実際は大人のほうが子どもより分別があるとは限らないし、
分別があっても善いことを子どもに教えることができるとも限りません。
by. 桜井章一氏
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また子どもは子どもで素直に教えられることを聞くとは限らないし、
それが善い教えであっても善いとは思わないかもしれない。
そもそも絶対に正しいことや誰が見ても善いと思うことはないと思います。
だから気軽に教育の善し悪しの尺度を持ち出し、
それを一切の疑いもなく信じ、
あれこれ子どもに指図している大人を見るとちょっと怖くなります。
物事の値打ちや価値観はあらかじめ決まっていて、
それに合う人は善い、
合わない人は悪い。
by. 桜井章一氏
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しかし、常識に従って生きるということは、
工場で製品がつくられるように社会がつくった決まった型に合った人間になるということです。
常識、非常識ということにとらわれず、
自分の中で善、悪の吟味を体験ベースにやっていくことが大事なのです。
子どもはひとりひとり性格も資質も違います。
先ほどの服のたとえを再び持ち出せば、
それぞれ生まれ持った素材が違うわけです。
by. 桜井章一氏
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自分で服を仕立てて、
それを着こなしていかなくてはいけない。
それが既製の教育の服に覆われない本来の自分に従うということです。
教育にできるのは、
その手伝いをすることであって、
決して善し悪しを分けて、
一方的な善を押し付けるものではありません。
たとえ、その善がどんなに正しく見えても善でないという部分は、
状況や条件が違えば表れます。
by. 桜井章一氏
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ペットを育てるのに不安を感じないのは、
コントロールできている感覚があるからでしょう。
子どもを育てることに不安を覚えてしまうのは、
自分のコントロールが利かないことへの怯えではないでしょうか。
つまり、子育てが自分の予測を裏切ることへの不安です。
子どもは元よりコントロールなどできないもの。
by. 桜井章一氏
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そもそも楽しくないとちゃんとした言葉は出てこないし、
義務感や使命感にかられ苦労して出そうとしても出てくるものではありません。
「ちゃんとしなkればならない」と思うから、
それに苦しめられる。
親がしなければならないことは何かといえば、
なるべくそのままその子が育つような環境をつくるくらいのことでいいと思います。
諦めることは、
開き直ることではありません。
by. 桜井章一氏
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私は道場でよく
「開き直りは弱者の論理」
と言っています。
開き直りとは、
自分の弱さに居直っているだけのことです。
しかし諦めは今の自分の弱さを認め、
そこに気持ちを残さないことなのです。
子どもにとってみれば所詮、
親の思惑や願望など知ったことではありません。
by. 桜井章一氏
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この半ば諦めるという感覚が大事です。
適当に諦めること。
「ちゃんと」育てようとすれば親も子どもも息が詰まってきます。
ですから、「ちゃんと」でなく、
「だいたい」という振れ幅のある感覚で子どもには接していけばいいのです。
熱心はいいことだと思われていますが、
私はそこに危なっかしさを感じます。
by. 桜井章一氏
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なぜならひとつの思いや価値観にとらわれて、
バランスを崩している状態を「熱心」
と呼ぶこともできるからです。
私の経験からいって、
「僕に任せてください」
と張り切って言うような、
やる気溢れる熱血漢ほどあてにならないものはありません。
でも、やる気をアピールする人間は自分の弱さをどこかでカバーしようとしてそうなっていることが少なくありません。
教育が熱過ぎると子どもには無用なひずみを与えることになるし、
最終的には嫌がって逃げてしまうものです。
by. 桜井章一氏
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