■わが遺言 ~勝負の鬼が辿りついた50の境地~ -ポプラ社-
悪いことばかりが起こっているのだとしたら、そんな時こそ楽しさを求めながら生きるべきであろう。人任せな生き方では決して己の可能性は広がっていかない。「自分で見つけ、自分で身に付ける」
ただ、戦いは国と国の間だけで起こるものではない。
人種の違い、
肌の色の違い、
思想の違い、
ちょっとした考え方の違いひとつで人々は争う。
夫婦、親子など家族間ですら争いごとは絶えない。
違うもの同士が同じ社会の中で生きているのだから、
そこに摩擦は必ず生じる。
by. 桜井章一氏
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動物は食べるために、
生きていくために弱肉強食の世界で争っている。
動物の本能には自分を守るための闘争本能があるから、
私たち人間の社会からも争いを一掃することは不可能だろう。
ただ、争いをなくすことはできないが、
その数を減らしていくことはできる。
そしてそれを実現できるかどうかは
「違いを認められるかどうか」
にかかっている。
by. 桜井章一氏
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あなたは考え方の違う他人の意見を
「そういう考え方もあるね」
と認められるだろうか?
百人いれば百通りの考え方があり、
同じ景色でも見る人によって解釈はまったく異なる。
その”違い”を認められるかどうか。
そのための第一歩は
「違いを楽しむ」ことである。
by. 桜井章一氏
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「ああ、そんな考え方もあるのか」
「へぇ、面白い解釈だね」
そんな風に多様な違いを認め、
楽しめる人が増えれいけば、
この社会から争いは減っていくはずだ。
人生の前半、
中盤に嫌なことがあったとしても、
最後に楽しい時間を過ごすことができれば今際の際に
「自分の人生は幸せだった」と思える。
でも私は人生の前半、
中盤がハッピーで終盤がバッドエンドを迎えたとしても、
その生き方が不幸せだとは決して思わない。
by. 桜井章一氏
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そもそも、人は「幸せ、不幸せ」
などという概念を持ってしまったから
「不幸」になったのではないだろうか。
私は若い頃から「幸せ、不幸せ」
という概念をあまり持っていなかった。
そのお陰で私はどちらの側にも振れることなく、
生きてくることができた。
「幸せ、不幸せ」に限らず、
度の過ぎた二極化は結局、
その両極端が突出することとなり、
一極化と同じような状態に陥ってしまう。
by. 桜井章一氏
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たとえば、自分を「不幸せ」
の極限に置いてしまえば、
世の中には自分よりも困った境遇にある人がたくさんいるのに、
そんな人たちのことはまったく見えず
「私だけが不幸だ」
という被害者意識にも似た考えに囚われることになる。
私はただひたすらに、
誰も歩いたことのない険しいルートを好んで選び、
先の見えない鬱蒼としたジャングルを切り拓くようにして自らの人生を歩んできた。
そんな時(どちらに進むべきか選択を迫られた)、
私の判断の基準となるものは
「幸、不幸」や「損得」といった、
現代社会で活きる人々の多くが持つ価値観ではない。
それは「楽しいか、つまらないか」という、
至極単純な基準だけである。
by. 桜井章一氏
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しかし、「楽しい」ことだけを追い求めてやっていれば、
他の人と比べる必要もないから苦しさ、
悲しさをあまり感じることはないし、
険しい道のりを歩む上での厳しさすらも
「自分を成長させてくれるもの」
として感謝できるようになる。
悪いことばかりが起こっているのだとしたら、
そんな時こそ楽しさを求めながら生きるべきであろう。
体が動かないのに、
気づけば雀鬼会の道場生たちと体を使った遊びなどをしている。
バラ色の人生などそうそうあるものではないのだから、
何かと自分を比べたりせず、
また、マスメディアの流す情報などにも左右されず、
自分の道を、自分の判断基準で歩んでいけばいいのではないだろうか。
by. 桜井章一氏
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私にとって「できなくなった」
という感覚は、
悲しいことでも残念なことでもなく、
新鮮な驚きである。
でも、私はそんな発見があると、
「これが年をとるということなのか」
とその実感を楽しんでいる。
可能性が少なくなっていくからこそ、
一層可能性を見つけ出すことに喜びもある。
翻って、若い人たちは我々年配者と違い、
あらゆる可能性を秘めている。
by. 桜井章一氏
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その可能性を自分で見出し、
しっかりと身に付けていく作業を続けてもらいたい。
「それはできっこない」と、
やりもしないであきらめてはいないか。
また、できなくなるとすぐに助けを求めたりしてはいないか。
今一度、自分自身を見つめ直すといいだろう。
by. 桜井章一氏
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可能性を見出し、
身に付けていくことができるのはあなた自身である。
人任せな生き方では決して己の可能性は広がっていかない。
人に教わって何かを学んだとしても面白くない。
自分で見つけることに喜びがある。
それが若さの特権でもあるのだから、
若い世代の人たちには冷たい社会の中で汲々とせず、
さらに失敗を恐れず、
「自分で見つけ、自分で身に付ける」
という作業を続けていってほしい。
by. 桜井章一氏
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年をとれば身に付けることより、
失っていくものの方が多くなる。
私は若い頃から「瞬間を生きる」
ことを大切にしてきた。
若い頃は瞬間に生きることで、
自分の中に何かが自然に増えていくような感覚があった。
今あるのは、
身に付けていくこととはまったく正反対の
「消していく」感覚である。
by. 桜井章一氏
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消しゴムで文字を消すように、
一日、また一日と、
私は自分の中の何かを消したり、
あるいは捨てたりしている。
最近では消したり、
捨てたりする作業を続けることで、
心身が逆に重くなっているような気さえする。
消しても消しても重く感じる。
それなのになぜ、消す作業を繰り返すのか。
すべてを消し去った時、
私は私でなくなる。
by. 桜井章一氏
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最後の感覚を捨て去る時。
それがきっと”死”というものなのだろう。
“死ぬ”ということは感覚がなくなることである。
死んだらその先は何もない。
あるのは”無”だけだ。
宗教では死んだら人間は天国に行くとか、
生まれ変わるとか言われているが、
それは人集め、
金集めのためにそう言っているに過ぎない。
by. 桜井章一氏
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死んだ後は何もないのだ。
「生まれ変わるなら〇〇になりたい」
といった話もよく聞くが、
私は何かに生まれ変わりたいとは思わない。
私は幼い頃から「〇〇になりたい」
と思ったことがほとんどない。
死んだら、その後は何もないし、
何も残りもしない。
by. 桜井章一氏
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