■20年間無敗の雀鬼が明かす 「勝負哲学」 -三笠書房-
私は勝負に臨むとき、常に「80%」の気持ちを忘れないようにしている。「100%」とか「絶頂」の向こうには、かならず不調がある。一体感を持つために大事なのは「楽しい」という感覚だ
もうひとつつけ加えるならば、
私の「集中」のイメージは、
「波紋」である。
池に小石を投げ入れると、
石を中心にして波紋ができる。
その中心に自分の身(目)をおいて全体を見通し、
それが無限に広がる感覚。
それが「集中」である。
by. 桜井章一氏
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一点凝視が集中だと思っている人は、
集中しようという意識が強ければ強いほど、
肩に力が入り、
やがて心身ともに硬くなってしまう。
視野が狭いうえに硬くなっていたら、
強くなれないどころか、
できることさえできなくなってしまう。
頭にも体にも柔軟性がないからである。
勝負どころで何より大切なのは、
緊張をつきつめた緊迫感なのだ。
by. 桜井章一氏
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そのときに、
まばたきもせずに目を見開いて集中しようとするのではなく、
むしろ薄目を開けるような気持ちでいれば、
波紋の中心から全体を見通すことができるはずだ。
一点を凝視して肩に力を入れたような「偏った集中」には持続力はない。
波紋の中心から全体を見渡すことが集中だという意味がわかれば、
おのずと集中力は持続できるのだ。
たしかに情報というものは、
手に入れることよりも捨てることのほうが難しい。
by. 桜井章一氏
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情報を得ただけで何かが成し遂げれるなら、
世の中、こんなに楽なことはない。
そう思ってしまうのは、
他力本願な部分が強いからだ。
しかし、情報などというものは他人からもらったものでしかないから、
自分の中にそれを判断する能力がなければ何の役にも立たないのだ。
なぜ情報を取捨選択できないか。
それは実体験がないのに知識だけ抱えてしまうからだ。
by. 桜井章一氏
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つまり、情報を生かすためには、
自分の実体験をもとに情報を判断する能力をつけておくことが必要なのだ。
自分自身が主体的に行動していくことによって、
情報の価値を測れるようになる。
それが情報処理能力だ。
情報が入ってきたら、
それをすぐに生かそうとか捨てようとか思わないことだ。
by. 桜井章一氏
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「捨て方がわからない」と言うなら、
無理に捨てようとしなくていい。
その情報が使えるときがくるのを待っていればいいのだ。
そのとき、実体験の中に情報を放り込んでみれば、
その情報が自分にとって有用かどうかがわかってくる。
もし「これは違うな」と感じたら、
そこでポーンと捨ててしまえばいいのだ。
by. 桜井章一氏
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どんな情報であっても、
情報と実体験の遭遇がなければ、
そこには何の価値もない。
情報を得る、
行動して情報を実体験する、
そのあとで取捨選択する。
その消火活動の繰り返しの中でしか情報の処理能力は身につかない。
自分で体験したことのない情報は基本的に信用しない。
by. 桜井章一氏
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自分で情報を体験して消化したとき、
はじめて知識が知恵になる。
そうしていくうちに、
今度は未知の情報を嗅ぎ分ける感性もついてくる。
この「100%」というのは、
案外、モロいものだ。
100%。
つまり、完全とか絶対というのは非常に危険だ。
by. 桜井章一氏
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私は勝負に臨むとき、
常に「80%」の気持ちを忘れないようにしている。
100をすべて勝とうとすると、
そのすぐ後ろには負けが待ち受けている。
「80、勝てばいい」という気持ちでいれば、
余裕が生まれ、
勝ち続けることができるのだ。
一生懸命にやっても、それは80%の力。
20%の余力がある。
by. 桜井章一氏
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この遊びがあるから、
余裕が生まれるし、
勝負も仕事も楽しくなる。
「100%」とか「絶頂」の向こうには、
かならず不調がある。
しかし、80%を保っていれば、
向こうに落ちてしまうことがない。
どんなにがんばったとしても、
それが自分の80%。
by. 桜井章一氏
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たとえば、人に何かをしてあげたとき、
どんなに尽くしたとしても
「これは80%」だと思えば、
自分を見失うこともなく相手との関係性も崩れない。
恋愛のときでも、
どんなに相手にホレても「これは80%」
だと思うことができれば20%の余裕が生まれ、
相手に過剰な期待をすることもなくなるから、
意にそぐわない事態が起きても相手を愛していられる。
「俺は100%dできた」とか
「俺は悟った」というのは、
柔軟性を失い、
相互関係を阻害する。
どんなによくできても
「まだちょっと足りないな」
「まだ80%だな」
という気持ちがあれば、
残りの20%のところに人間らしい柔軟な気持ちが生まれ、
相互関係が生まれるのだ。
by. 桜井章一氏
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プレッシャーに強くなるためには「80%」の気持ちを忘れないことが大切だ。
また、「俺は100%だ」と思っていると、
相手や物事をナメる感覚が出てしまう。
私は麻雀のとき、
どんなに格下と思える相手あっても
「自分は80%」という気持ちで勝負に臨む。
相手をナメてかかると、
それだけで負ける要素をひとつつくることになってしまうからだ。
by. 桜井章一氏
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相手や物事をナメてかかるような人間に限って、
大事な局面ではプレッシャーに負けてしまう。
それは、相手や状況によって「これは楽勝」
とか「これは手ごわいぞ」
などと自分で決めてしまうことによって、
自分の精神状態もそれに大きく左右されているからだ。
弱いと思える相手との勝負でもナメることなく、
強いと思える相手との勝負でも怯むことなく。
その根底に流れる精神のひとつが「80%の自分」なのだ。
by. 桜井章一氏
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恐怖心と緊張感と自分とが一体化して新たなひとつのエネルギーに転化する。
そんな緊迫した感覚なのである。
私は麻雀を打っているとき、
緊張感と牌と自分との間に一体感を持っているし、
疲れたらその疲れと一体感を持つ。
海に泳ぎに行けば水と一体感を持つし、
山へ行けば木や草と一体化する。
こうした一体感を自分の中に持てるようにしておけば、
プレッシャーに負けてしまうこともなくなるはずだ。
そして、そういう一体感を持つために大事なのは「楽しい」という感覚だ。
楽しくなければ、
そこには違和感が生じるだけで一体感など持てない。
by. 桜井章一氏
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