■きみに努力はいらない -大和書房-
他と比べても、物事の本質は見えてこないということを早いうちから知っておくべきだ。人間というのは、残酷な生き物だ。調べて知ってしまうことの罪は実に重いのだ
どうしても人と比べたいのであれば、
昨日、1年前、10年前の自分と比べてみることだ。
同期と自分を比べて一喜一憂してしまうのは、
それまで育てられた環境の影響が起因しているのかもしれない。
他と比べても、
物事の本質は見えてこないということを早いうちから知っておくべきだ。
他者と比べて勝つことがばかりを考えていると、
相手の足を引っ張ることを考えたり、
少しでも上に立ちたいと思って上から目線で相手を見ようとしたりする。
by. 桜井章一氏
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これらはどれも自分に成長をもたらさず、
ムダに気持ちをすり減らすだけに終わる。
さらには、5年後の自分を想像し、
今の自分と比べてみてもいいだろう。
競争相手を自分の中に置いて比較してみると、
自分にとってプラスのことがたくさん起きてくるだろう。
1年のうちで自分はどれだけ変わることができるのか。
by. 桜井章一氏
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これを常に意識することで、
自分の成長を実感し続けることが可能になる。
他者との比較から脱却し、
何事も自分との勝負だということがわかれば、
同期が出世しようが、
後輩が追い上げてこようがうろたえることはないはずだ。
打ち勝たなくてはならないのは自分であり、
周囲の人間ではない。
こういう考え方ができるようになれば、
あとは自分の道を突き詰めていけばいいのだから、
失敗しても他人のせいにしようと思わないし、
すべてが自分の行いの結果であると素直に受け止められる。
by. 桜井章一氏
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人間というのは、
残酷な生き物だ。
残酷性とはかけ離れたような人でも、
必ず心のどこかに残酷な部分を抱えている。
こんなふうに、
社会の仕組みはしばしば冷徹で残酷な様相を見せることがあり、
その仕組に組み込まれている人たちは残酷性を許容せずには生きていけない。
ところが、ほとんどの人が
「自分は残酷さなんて持ち合わせていない」
と思い込みながら生きているのではないだろうか。
by. 桜井章一氏
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たとえば、もしあなたが、
ある種の恐怖心を抱きながら生きているのであれば、
「残酷さを行使される側」
だと思っている証拠と言っていい。
必ずどこかで恐怖心に悩まされるシチュエーションに遭遇する。
どうしてそうなるのかというと、
すでに述べたとおり、
どんな人も残酷さを持ち合わせており、
誰かに対してそれを吐き出すからだ。
自らに何らかの”権限”
らしきものがあると思い込んだとき、
その”権限”を行使してみたいと考える人は実に多いのだ。
by. 桜井章一氏
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誰もが心の中に残酷性を持っていて、
どこかでそれを表に出す。
この事実をしっかりと自覚しておけば、
思わぬところで人の残酷さを目にしたり、
自分が恐怖の場面に遭遇しても、
なんら不思議ではないと思えるだろう。
さらに、そうしたケースに備えて受け身もできるはずだ。
人間は生きている限り、
時として攻撃的になるものだ。
by. 桜井章一氏
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私からすれば、
人殺しをして天下を取ったところで何の価値があったのかと言いたくなる。
しかし、他人と比べても、
他人との比較はどこまで行ってもキリがなく、
最後には虚しい思いしか残らない。
それよりもむしろ、
自分だけの価値観をいち早く確立し、
それに忠実に生きていくことを自分にとっての
“天下取り”と捉えたほうが、
どれだけ人間として素晴らしいだろう。
この考え方に従えば、
どんな人でも”天下取り”
になることが可能であり、
他人を蹴落とすような醜いことをする必要がなくなる。
by. 桜井章一氏
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自分だけの”天下”を取るためには、
これこそが自分にとって大切だと思える価値観を持つことが不可欠だ。
まずは実践してみて、
「なんか違うな」という違和感を持ったら、
それがあなたの納得する生き方のヒントになる。
そのためには、
自分自身への問いかけを常に行い、
自分にとって大切なものとは何なのかを見極めていかなくてはならない。
だが、諦めずに探し続けてほしい。
諦めない限り、前進していると思っていい。
by. 桜井章一氏
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その過程も決して無駄ではないのである。
「これは知る必要はない」
ときっぱり決断できれば、
怒りや不安から無縁でいられる。
私の行動パターンを自分なりに分析してみると、
修羅場というか、リスクが潜んでいそうな方向へ好んで突き進んでいく傾向があるのがわかる。
危ないかなと思うと、
どういうわけかそちらに引き付けられ、
ふらふらと飛び込んでいってしまうのである。
by. 桜井章一氏
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知らなくていいものまで知ってしまった結果、
気になって不安になるということは結構あるものだ。
ネガティブな感情に襲われるくらいであれば、
「これは知る必要はない」
ときっぱりと判断し、
そこに触れなければ、
怒りや不安といった悪感情から無縁でいることができる。
調べて知ってしまうことの罪は実に重いのだ。
情報がたくさんあったほうが楽しく暮らせると信じている人もいると思うが、
実際はその逆で、
情報に手足を縛られて、
自由な発想の妨げになることも多いのだ。
by. 桜井章一氏
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情報にはネガティブなものもあるため、
それを仕入れることで気持ちが暗くなることもある。
これだけのマイナス面があるのだから、
知り過ぎること、
情報を取り入れ過ぎることについて、
もう少し自己抑制をかけてもいいのではないだろうか。
良心は見せびらかすものではない。
見返りを期待せず、自発的に発するものだ。
こういう(人が助けを求めている)ときに反射的に行動できない人は、
卑怯以外の何者でもないと言っていいだろう。
by. 桜井章一氏
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「自分が手を差し伸べてなくても、
誰かが助けてくれるに違いない…」
そんなふうに考えてしまうのであれば、
逆の立場になったときのことを想像してみるといい。
助けがどうしても必要なのに見て見ぬふりをされたら、
絶望的な気持ちになるはずだ。
困っている人がいたら、
とにかく声を掛けて助けてあげることだ。
by. 桜井章一氏
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こうしたことを自然にできない人間は、
成長が足りないと言わざるを得ない。
(被災地での支援活動)
私は道場生たちに
「俺たちはいいことをしに行くんじゃないからな。
良心ヅラするんじゃないぞ」
と伝えた。
さらに、「行ったらきっと何かを学べる。
それだけのことだ。
いいことをしたという気持ちを持ったらダメだぞ」
と付け加えた。
「お父さんから、ああいう言葉を聞いておいてよかった。
もしもいいことをしに行くというおごった気持ちを抱いていたら、
『助けに来てやったのに、その反応はないだろう』
なんて思ってしまうような場面が何度かあったよ。
でも、お父さんが言っていたことを思い出して、
不満に思うことはなかった。
学ばせてもらった」
by. 桜井章一氏
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そもそも良心なんていうのは、
周囲にわかるように見せびらかすものではない。
相手からの感謝や見返りを期待せず、
自発的に発するものなのだ。
「コスパ」などと言って、
自分の行動を費用対効果で考えるようでは、
打算的だと思われるだけだ。
こうしたことがわかっていないと、
ただの偽善になってしまいかねない。
by. 桜井章一氏
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