■すこやかな生き方のすすめ -廣済堂-
人とのつきあいのなかで、言葉ほど曖昧なものはないんだ。ですから、相手とコミュニケーションを取りたかったら、目で見ちゃいけない。相手の動きも見てもいけない。五感すべて感じとる
できないことは、言わないよ。
私も、やってないことは書きません。
企業人で信用できるのは、
自分の業界を素直に否定している人、
こういう人は信じるね。
自分の業界を素晴らしいと思っているサラリーマンがいたら、
そいつはサイテー。
こうした(ひとつの言葉に囚われてしまう)子には、
一気に話すのではなく、
使う言葉を少なくして、
「行動」によって教えている。
by. 桜井章一氏
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口先だけで勝負するヤツが危険なのは、
相手の反応を考えていないことだ。
人とのつきあいのなかで、
言葉ほど曖昧なものはないんだ。
それを平気で武器にする。
最低だ。
金をどんなに積まれても、
やりたくないものはやらない。
by. 桜井章一氏
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そのかわり、意気に感じたら、
タダでもやる。
そういうのを職人気質って言ってたけどね。
ある日、
「平櫛田中という有名な彫刻家が、日本の刃物は切れないから、ドイツの手術用のメスを手に入れて、それで彫っている」
という話を聞いて、
彫刻刀を何本かつくり、
平櫛田中宅を訪ねたそうです。
すると、平櫛は千代鶴を座敷に通し、
その切れ味を試したんですね。
by. 桜井章一氏
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ところが、これが長い時間がかかった。
座敷に砥石を持ち込んで、
研いでは削り、
研いでは削る
昼飯の時間になると、
奥に引っ込んで、
座敷には千代鶴のために御膳が出て、
食事が終わると、また、
やってきて同じことを続ける。
それまでひと言も言葉をかわさず、
夕食も終わり、
夜も更けた頃、
平櫛はやっと手を止めて、
「これから私の彫刻道具はあなたにすべてつくってもらいたい」
と言ったそうです。
by. 桜井章一氏
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すると、千代鶴は
「いやいや、そのためにきたのではありません。
日本にもよい刃物をつくる鍛冶屋がいることさえわかっていただければ、それでいいのです」
と言って帰ったというんです。
これが、職人同士、
名人同士のつきあいですよ。
言葉なんかいらない世界。
ところが、いまはサラリーマンの社会だから、
彼らは自分でモノをつくらないし、
売ることに関しても自分で決められないことがあまりに多いから、
言っていることとやることがちがっちゃう。
by. 桜井章一氏
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「この車、いいでしょう」
と言ったって、
車をつくれないんだから、
説得力がない。
ところが、いまのお父さんたちは、
言うこととやることが矛盾してる。
なんだか、国語というのは、
お手玉とか、
おはじきみたいに、
女の子がやるものみたいな感じがあって。
国語というか、
本を読むとか文章を書くのは女の子とか。
by. 桜井章一氏
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そういう意味では、
私は「書く」ということにまったく興味を持たなかったね。
でも、基本的に思ったことを書きっぱなし。
推敲なんてまったくしない。
まあ、本は別にしても、
言葉という観点から見れば、
人間、普通に会話しているけれど、
私はもともと、
基本的に言葉というものをあまり信用していないところがあるね。
私は、はっきり言って感覚人間。
by. 桜井章一氏
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そうした感覚を通した「ふれあい」
を大事にしている。
いわゆる、接触。
たとえば、海だって、
穏やかな時もあれば、
津波のような厳しい時もある。
いや、ただ、
反抗しているんじゃないですよ。
by. 桜井章一氏
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その人のしぐさ、行動、全部見て、
見破ってますから。
これが、サラリーマンの人たちには難しいらしい。
嫌でも、口をきいてしまう。
だから、上っ面だけのつきあいになるわけだよね。
人間はたいがいの人が、
常識にとらわれて、
思い込みや先入観を持って生きている。
by. 桜井章一氏
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だから、相手を肩書で見る。
そうすると、思考も行動も固定されてしまう。
人でも社会の動きでもまっさらな状態にして見るわけ。
みんな有名人や有力者と仲よくなって、
自分に都合よく利用しようとしたりするからね。
その気持を捨てると、
カッコいい。
by. 桜井章一氏
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縁はあっても仕事には絶対利用しない、
というほうがどれだけカッコいいか。
人との「ふれあい」って、
出会った瞬間、
何を感じるか、
いわゆる「気づき」、
それが大事なんだと思う。
気づいたからって、
言っていいということにはならない。
大事なことは、
その女と「ふれあい」
のキャッチボールができるかということなんだ。
by. 桜井章一氏
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その時の相手はね、
最初と形がちがうんだ。
かなり、変化してる。
それを受ける私も、
最初とはちがう。
そうすると、そこに美しさとか、
思いやりとか、
いろいろなものがキャッチボールの中に入ってくる。
by. 桜井章一氏
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次に、それが長く続いたある日から、
その女が落ち込んだり、
自我が強く出た時があったりする。
そのボールをこっちが受け取らないと、
自分に当たったりする。
当たってから気づくみたいな。
つまり、コミュニケーションとは、
「はい、投げるよ」と言って、
投げたり、受け取ったりする関係ではダメなんです。
by. 桜井章一氏
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不意に背中からボールがきても、
気配を感じて振り向いてキャッチする、
そういう感覚で、
人とつきあっているか、
ということです。
ですから、相手とコミュニケーションを取りたかったら、
目で見ちゃいけない。
相手の動きも見てもいけない。
感じる、ただ、それだけ。
五感すべて感じとる。
by. 桜井章一氏
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文章や物語を組み立てるにあたっても、
かなりのエネルギーを使うでしょ。
つまり、人とつきあうことに対しても、
自然に、そうした無意識の「意識」
がそうさせてしまうんだと思いますね。
普通、文章を書く人は、
人に伝えたいという思いが強い。
私にとっての文章は、
伝わらなくてもいい。
by. 桜井章一氏
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あとで自分で納得してればそれでいいという感じですね。
その感じで、
人とつきあう。
だから、相手がどう思っているかなんか、
あまり、関係ないんです。
by. 桜井章一氏
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