最後まで粘り耐える人に、チャンスはやってくるものです。ピンチは敵ではなく、すでに自分の円の中にある味方なのだと思います。いい約束を自分とする。毎日する

■人生を変える美しい勝ち方 -宝島社-

最後まで粘り耐える人に、チャンスはやってくるものです。ピンチは敵ではなく、すでに自分の円の中にある味方なのだと思います。いい約束を自分とする。毎日する

本当に開き直ったらお終いです。

開き直りは一見、
潔い感じがしますが、
しんどさに耐えられなくなって窮地から逃げているだけです。

最後まで粘り耐える人に、
チャンスはやってくるものです。

絶体絶命は、
打つ手がどこにもない「お手上げ」と思える状況ですが、
それでもどこかに抜け道は必ずあるものです。


by. 桜井章一氏

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絶対にあきらめず粘り強く探せば、
小さいながらも突破口が見えてくるはずです。

そのためには、
普段から小さなことに気がつく習慣を持っていることが大事です。

大きなものばかりに目がいくようでは、
小さなチャンスを見逃してしまいます。

小さなことに気づけば、
流れに微妙な潮目の変化を感じ取って、
受けから攻めに転じることも出来ます。


by. 桜井章一氏

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私なら絶体絶命はピンチでなく、
劣勢ととらえます。

タコが危険を察知して色を変えるように、
自然の感覚を持って円を描き、
全体観を抱いてチャンスを待ちます。

その意味で、ピンチは敵ではなく、
すでに自分の円の中にある味方なのだと思います。

守られない約束は、
打算があったり、
その場かぎりの人間関係であったり、
心が弱かったりと、
約束が脆くなる要素がどこかにあります。


by. 桜井章一氏

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いずれにしろ、
人との約束は、
言い訳したり、
逃げたりとごまかしやすいものです。

だから私は「自分と約束しろ」と言います。

自分に対する約束であれば、
自分の心にごまかしは出来ません。

卑怯なことはしない、
きびしさから逃げない、
卑しいことはしない、
口でなく行動する……。


by. 桜井章一氏

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自分に対するルールを作り実行していくことが、
自分に対する約束です。

悪い感情を律することも愛なのです。

いい約束を自分とする。
毎日する。

それを守ることが人間的な強さになり、
勝負における強さにもつながってくるのです。


by. 桜井章一氏

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■人は八割方悪である -竹書房- 生きることは相対的なものであり、相互感や全体感を持つことが大切だ 子どもが...

勝者とは裏返して見れば、
人に「負け」を与える人のことです。

敗者という犠牲の上に成り立つのが勝者というわけです。

私は反対に、
人に「勝ちをどうぞ」と「勝ち」を譲る人になりたい。

「勝てば官軍」というコトバに表される価値観が圧倒的になった世の中において、
現代人の呼吸は心の深いところで激しく乱れているように感じます。


by. 桜井章一氏

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それは、「勝ち」に到る過程にこそ、
人としての大事なことが盛り込まれるはずなのに、
その肝心な部分が片端から見事にはしょられてしまっているからです。

それを取り戻していく力が、
「勝ちをどうぞ」という気持ちにはあるように思います。

「勝ちをどうぞ、と言える人が勝ち」
そんなことを思う人が一人でも増えてくれれば。

そう心から思っています。


by. 桜井章一氏

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■賢い身体 バカな身体 -講談社-

触れようとすると
「おまえ、もう引退したんだろう、俺たちに触るなよ」
と牌から拒絶されて、
実際に持とうとすると、
指に激しい痛みが走ったそうでさる。

これはもう牌に
「拒絶されているような気がする」
といったレベルの話ではない。

まさに牌そのものと自在に会話をし、
牌とともに生きて来た桜井章一という人物だからこそ起こったことだと思う。

これほどに道具である牌と一体化されていたからこそ、
たとえば(私は麻雀のことはほとんどわからないのだが)、
裏返った麻雀の牌の山のなかから無造作に積んだものが既に揃った形の天和になっていた、
などということが可能になったのだと思う。


by. 桜井章一氏

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■感情を整える ここ一番で負けない心の磨き方 -PHP研究所- 人から信用される人は、面倒というものが人が生きていく上でとても大事...

現代人は、理性信仰というか、
頭に対して絶対的といっていいほど強い依頼心を持っています。

頭で考えて身体を動かしたり、
使ったりするということは、
要は知識でどうにかしようということです。

しかし、知識で身体を理解したり使ったりということは、
バカな社長が背や胸や腰、
脚足を差し置いて、
自分が使いやすい「手」ばかりを使うということです。

頭がバカ社長になると、
いろいろな問題が出てきます。


by. 桜井章一氏

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環境問題もそうだし、
教育や心の問題もそう。

実はこうした頭と身体の関係で生きていくことは、
はかりしれないくらい大きなマイナスの影響を自分自身にも社会にも与えます。

何でも頭で考えて解決がつくという風潮になってきていますからね。

それが当たり前になると、
そのうち揺るぎない固定観念になってしまって、
いろいろ問題が起きてくるんです。


by. 桜井章一氏

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いまの世の中みたいに頭や知識ばかりの世界になると、
何から何まで頭と頭、
知識と知識同士の力比べの状態になってしまいます。

だけど知識に頼らないで身体の感覚だけでいくと、
頭の力は一挙にかすんでしまうんですね。

その恵みが多ければ多いほど、
知識はどこかに飛んでいってしまいます。

要は、頭が過剰に介入することをいかになくすかということで、
そのためにいろいろな形で工夫することです。


by. 桜井章一氏

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■雀鬼流。~桜井章一の極意と心得~ -三五館- もっともっと麻雀の本質、自然の流れを見極める努力をするべきなのです ...

まずは、身体全体のネットワークを作るようにすることが大切だと思います。

そうやって意識的にやったことが、
だんだん無意識的にできるようになる、
つまり意識的にやっていたことがだんだん身体のネットワークを使って自動的にできるようになるという階段を上っていくわけです。

そうすると人があっと驚くような常識を超えた技になる。

身体を部分でとらえたり動かしたりすることが無意識のうちに習慣になっているのです。


by. 桜井章一氏

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ウエイトトレーニングでは、
重いものを持って「うー、重い、重い」
と負荷をかけることで部分部分の筋肉を太らせるわけです。

しかし、部分を強調すると、
それぞれの部分はそれで強くなったとしても、
「俺が、俺が」と言い始める。

そして、その「俺が、俺が」という部分がたくさんできると、
それらは協力しにくいんです。

それぞれが勝手に自己主張するから全体としての相互互助システムとしてのネットワークにならない。


by. 桜井章一氏

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本当の集中とは点にエネルギーを集めることでなく、
全体に拡散していく状態のことなんじゃないですかね。

その意味で身体全体をチームワークで動かすというのは、
まさに身体の中で拡散した集中を行っている状態とも言えますね。

ただ、重いものを持つトレーニングをするにしても、
身体中が協力する態勢になって、
そのチームワークが崩れない形でやればいいと思います。

重いものでも重くないように工夫すれば、
はたから見ている分には、
同じように見えるトレーニングでもまったく違うものになりうるんですね。


by. 桜井章一氏

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