■「勝負強い人間」になる52ヶ条 -三笠書房-
計算よりも相手のことが大事だということに気づいたから、結果的に相手より強くなれる。
能力や才能がある人間に育てることはできても、
闘志がある人間に育てるというのは不可能と言っていいほど難しい。
闘志はないがそこそこ何でも器用にこなす、
という人間に技術を教えてこんでも、
それは二流三流で終わってしまう。
闘志がある人間であれば、
最初はヘタクソでセンスもないと思っていても、
あるとき、飛躍的に伸びるということがよくある。
そういう人間は一流になる可能性を持っている。
by. 桜井章一氏
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負けても負けても、
何度も何度もチャレンジしていくということが闘志の始まりだ。
こういう闘志を失った日本人が多くなったのは、
計算が勝ってしまうからだ。
数字や効率がすべてに優先する社会の中で、
日本人は闘志を失ってしまった。
しかし、「勝負に勝つ」とか「強くなる」ということは、
実は計算では成り立たない世界なのだ。
by. 桜井章一氏
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麻雀は数合わせのゲームだと思われているかもしれないが、
数にこだわる人間は強くなれない。
「麻雀は確率の勝負だ」などと言うのは大間違いで、
実際は確率とか数字を超えたところで勝敗が決まる。
私は「麻雀を1枚の絵としてとらえる」という話をしたが、
それは麻雀を全体的にとらえて、
その流れの中で勝ちを引き寄せるために「数」
以上に大事なことがあると気づいたからである。
数、つまり、
計算が先に立たないから闘志も湧く。
by. 桜井章一氏
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計算よりも相手のことが大事だということに気づいたから、
結果的に相手より強くなれる。
麻雀と同じように、
実はこの社会も計算以上に大事なことがあり、
それが勝ち負けやさまざまなことに大きな影響を与えている。
これは彼ら(経済学者、アナリスト)が無能だとかなんだとかいうことではなく、
数字というのはそもそもそういうものなのだ。
計算などせずに、
これと思ったものにまっすぐに立ち向かっていくところにこそ、
活路がある。
そのとき、
活路を進んでいくために必要なのが闘志なのである。
by. 桜井章一氏
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流れを読む力をつけたい。
そんなとき、「読む」という言葉にとらわれて、
頭で考えてしまうと何も見えなくなってしまう。
読むというよりも、
「次にどうなるか」という流れを見抜く。
それができるようになるための面白いトレーニング方法がある。
by. 桜井章一氏
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日常生活の中で、
知らないことやこれから起こることを当てるゲームをするのだ。
知識も情報もまったく入り込まないようなことを当てるのだ。
つまり、勘だけを頼りに当てていくゲームを繰り返すのだ。
たとえば、
初対面の人の子どもの人数や性別を当てる。
電車に乗っているとき、
次の駅で最初に乗ってくる人の性別や世代を当てる。
あるいは着ている服の色形を当てる。
by. 桜井章一氏
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そんなふうに、
すぐに答えが出るようなことを問題にして、
どんどん当てていくのだ。
みんな「当てる」というと、
競馬やパチンコのよく出る台を当てたいとか、
何か利益になるようなことを当てようと思っているが、
そういう欲がからむことではトレーニングにならない。
始めてみればわかるが、
最初はきっとまったく当たらないはずだ。
それは、
日頃何かを予測したり当てようとしたりするとき、
知識や情報を頼っているからだ。
それでは勘が働かない。
by. 桜井章一氏
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勘というのは、
情報や知識を超えた力を働かせなければ当たらないものなのだ。
ふだんはそういう力を使っていないから、
もうその力は失われている。
それは、そういう力がないのではなくて、
使わないことによって退化しているだけだから、
しょっちゅう使っているうちに、
その力が戻ってくるのだ。
これは情報、
しかも間違えた情報を頼りに当てようとするよりも、
よっぽど力になるのである。
by. 桜井章一氏
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麻雀にしてもそうだ。
情報に頼る人よりも勘がさえた人が勝つ。
絶対に間違いない情報というのがこの世にどれだけあるか知らないが、
間違っている情報を頼りにして判断していたら、
それは判断を間違えるに決まっている。
情報過多の世の中になればなるほど、
そういう過ちが多くなる。
はなから間違っているものをありがたがっているよりは、
勘が当たるように鍛えておいたほうが、
勝利に近づけるのだ。
by. 桜井章一氏
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いわゆる「楽天的」というのは悪いことではない。
言葉の印象としては少し軽い感じはするが、
楽天はよいことだ。
物事を重く考えると気持ちが重くなる。
気持ちが重くなると体が重くなる。
体が重いと弱くなる。
そういう人は弱い。
by. 桜井章一氏
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人間、
社会の中で生きているといろいろな責任を背負って重くなる。
けれども、
そういう責任を重く感じずに始末できる人間は常に身が軽い。
そういう人間が強いのだ。
どんなに責任を果たしても、
どんなに苦労をしても、
そんな苦労を背中からおろしてケロッと忘れてしまうような人間が強い。
by. 桜井章一氏
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スポーツ選手の中にはときどき
「俺はあんなに努力したんだから勝てるはずだ」とか
「自分は『これだけやった』という自信を持つために猛練習をしてきた」
という人がいるが、
それは二流以下の考えだ。
ある囲碁のタイトルをとった人が
「今まで、自分がどんな苦労してきたかなんて、全部忘れました」
と言っていたが、
これは本物だ。
スポーツにしろ他の勝負事にしろ、
その道の人たちが強くなるために他人の何倍も汗をかくのは当然のことだ。
それを「自分の支え」だと公言している人は、
それだけで重い。
by. 桜井章一氏
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日本には「苦労は買ってでもしろ」
という言葉があるように、
苦労は美徳とされているが、
それを表に出すのは勝負師のすることではない。
「私は苦労をしてきました」
と顔に書いてあるような人は一流ではない。
物事を成し遂げようと思ったら苦労をするのは当たり前のことで、
それを人に見せたって何も始まらないのである。
by. 桜井章一氏
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計算から勝負に入っていく人は、
それが「勝負を読む」ことだと思っている場合が多い。
しかし、「読み」というのは計算とは違う。
勝負において、
計算で成り立つことなんて実はほとんどない。
「君たちは格闘技の専門家として、
事前に情報を収集したうえで『どっちが有利だ』
と言っているかもしれないけど、
私はそういう情報は一切、
見ていないんだよ。
リングに上がるまでの両者の表情や歩く姿とか、
リングに上がってからの両者の雰囲気や目つきを見て、
感じたとおりに言っているだけだよ」
by. 桜井章一氏
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