■感情を整える ここ一番で負けない心の磨き方 -PHP研究所-
周りの人からいろいろなものをもらいっぱなしという気持ちがいつもある。海や山など自然のなかに入っていけば、自分の生命が自然から恵まれたものであることを実感する
不安は危機を察するアンテナの役目を果たしてくれるという点だ。
不安というのは自分の身を守るための本能的な感情といえるだろう。
不安というアンテナがあるからこそ、
人は危機を事前に察知したり回避できるわけである。
もう一つのプラス面は、
不安があるから、
人は努力して前に進むことができるという点である。
by. 桜井章一氏
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不安があると、
それを打ち消そうと努力したり、
頑張ったりする力が出るのである。
不安を悪いものだと思いこんでいるとしたら、
それは間違っている。
不必要に不安はもたないほうがいいが、
ある程度の範囲内では必要なのだ。
それがなければ、
人生はかえって不幸なものになることを覚えておいたほうがいいだろう。
by. 桜井章一氏
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謙虚は自分を優位にする社交術にすぎない。
私は、
日本の経済がグローバリズムについていけないほうが、
日本人の幸せのためにはむしろいいと思っているが、
かといって謙虚さや慎ましさといった日本の精神文化が、
それほど大事だとも思っていない。
なぜなら、
日本人が好む謙虚さといったものは、
一つの社交術にすぎないからだ。
つまり、それは相手との関係のなかで自分を優位にするための技術なのだ。
by. 桜井章一氏
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自分の位置を低くして、
相手を高くする。
そのことで相手の気分をよくし、
ものごとを円滑に運ぶ技術といってよいものなのである。
私はそういうテクニックは別に必要ないと思う。
謙虚はいいものだとみな思っているが、
傲慢は誰しもよいものとは思わないだろう。
by. 桜井章一氏
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つまり、傲慢という概念があるから、
その対極にある謙虚な考え方が大事になるわけだ。
それなら傲慢がはじめから存在しなければ、
謙虚も必要なくなってくるはずである。
要するに、
謙虚さを出す人は裏側にどこか傲慢なものがあるから、
それを見せないためにテクニックとして謙虚さを出しているということである。
慇懃無礼という言葉がある。
by. 桜井章一氏
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言葉や態度が丁寧すぎて、
かえって無礼になるという意味をもつが、
この言葉はまさに謙虚というものが傲慢とセットであることを示している。
この場合の丁寧というのは、
謙虚さの延長線上にあるものだからだ。
だが、丁寧すぎることなく謙虚というレベルにとどめておけば、
無礼な印象を相手に与えることなく、
反対に人から好感を抱かれるのである。
人間というのは誰でも、
基本的に傲慢な要素をもっていると私は思う。
by. 桜井章一氏
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それは自尊心というものをもっているからだ。
自尊心とはいうまでもなく、
自分のことが一番大事で一番偉いと思う感情である。
だからこそ自分が抱えている自尊心をどう扱うかを人は苦慮するわけだ。
根っこにある傲慢なものを自覚しつつ、
かといって謙虚になるのでもなく、
もちろん傲慢に振る舞うのでもなく、
ただ”ふつう”に人と接することができれば、
それが一番いいのではないだろうか。
by. 桜井章一氏
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人は結局、
退屈が与える苦痛から逃れるために仕事をしたり、
遊んだりしているといえる。
まさに「人生は暇つぶし」なのだ。
人がおもしろいと感じる映画は、
たいてい動きや変化に富んでいるものだ。
映画と同じで、
人は動物という「動く物」なのだから、
現実にも動きや変化がいろいろあったほうが楽しいのだ。
by. 桜井章一氏
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動けば変化が起き、
変化が起きればそれに合わせて動く。
動きや変化は人生に刺激を与え、
何よりも退屈から人を救ってくれる。
動かなくなると、
心にも動きがなくなってくる。
体も心も動きを止めてしまっているから、
ウツの人は感動も感激も感じにくい。
by. 桜井章一氏
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ところで動くのが下手な人が先読みしすぎるのは、
「こんな集まりに出ても、ためにならない」
などといって、
いちいち行動することの意義や意味を考えるからである。
ともかく自分なりの意義や意味をちゃんと見つけないと動けないのだ。
しかし、別に意義も意味もなくたってかまいやしない。
「人生は暇つぶし」くらいの軽い気持ちでいたほうがいい動きができるだろうし、
それによって退屈さの罠にはまらずにすむと思う。
by. 桜井章一氏
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「俺って自分を、肯定でも否定でもないところにいつも置いているな」と感じたが、
その感覚は私が物心ついたときからずっと持ち続けているものである。
私は自己肯定や自己否定のどちらかに偏ることはなく、
その両方でないところにいつも自分を置いている気がする。
私には一つの感情だけに大きく振れるということが、
ほとんどないのである。
私は自己肯定と自己否定、
真面目と不真面目といった、
相反する感情や態度のどちらでもないところに別枠をつくって、
そこに自分を置きたくなる性分があるのだ。
by. 桜井章一氏
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大きく一つの感情に振れる人は、
必ず正反対の感情にも大きく振れるのが道理だからだ。
自己否定と自己肯定の間で行ったり来たりを繰り返して、
そこから抜け出さえない人が増えているとすれば、
それは昔に比べて自分のことを考える時間が増えたからに違いない。
人間は長々と考える時間をもつと、
ろくなことにならないのだ。
もし自己肯定に近い気分が私に起こることがあるなら、
それは何か努力を積み重ねてつかんだ結果のものでは、
けっしてないだろう。
by. 桜井章一氏
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たとえば私には、
道場生をはじめ、
周りの人からいろいろなものをもらいっぱなしという気持ちがいつもある。
海や山など自然のなかに入っていけば、
自分の生命が自然から恵まれたものであることを実感する。
そんなふうに人や自然からもらったり、
やってもらったことを思えば、
ひたすら感謝の気持ちしか湧いてこない。
感謝の気持ちがあるときだけ、
私は自分のことを肯定的な感情で素直にとらえることができる気がする。
by. 桜井章一氏
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私の人生は麻雀抜きでは語れないが、
同時に私は麻雀を否定している。
私が勝ったことで当然負けた人間がいる。
そんな連中の犠牲の上にある「無敗神話」など、
ほんとうはちっとも自慢できるものではない。
だから私は、
勝負師としての私を、
心の底では肯定することができないのである。
by. 桜井章一氏
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