■感情を整える ここ一番で負けない心の磨き方 -PHP研究所-
私がこれまで絶望にとらわれたり、深刻になったりしたことがなかったのは、ヨットのように、いつも「風」が自分を動かしていると感じながら生きてきたせいかもしれない
そこでなかなかあきらめきれないのは、
「ここであきらめてしまうとこれまでの努力がゼロになってしまう。
それはあまりにももったいない」
と思うからだ。
だが、あきらめなければ、
もっと虚しい努力と時間を重ねることになりかねないのである。
あきらめれば別の人生があるわけだが、
そっちのほうに、
より大きな可能性があることは、
いくらでもあるのだ。
そんなときは締切りを自分で設けるといいだろう。
by. 桜井章一氏
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あと一年だけやってダメならあきらめようというふうに自ら線引きするのだ。
あきらめないで頑張りすぎると、
心身の消耗が激しくなるからである。
勝つことがけっしていいことではないということに気付き、
勝ち続けることに虚しさを覚えた私は、
勝負師を続けることをあきらめたのだ。
雀鬼会を立ち上げてからの私は、
お金も何もない若い連中と一緒に、
土の上を踏みしめながら歩いてきたように感じる。
だが、若い連中とともに歩んできた約四半世紀のほうが、
ほんとうの人生のように思えるのだ。
by. 桜井章一氏
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ちなみに麻雀の勝負においては、
私は勝負を捨てるという意味であきらめたことは一度もない。
しかし、別の意味であきらめることは幾度もあった。
それは勝つことをあきらめて、
「きれいな麻雀を打とう」と思ったときだ。
「この勝負、もしかして落とすかな」
とふと感じたときに、
勝てなくてもいいからきれいな麻雀を最後まで打とうと思ったのだ。
ところが、そうやってあきらめると、
不思議とツキが回りだして結局勝ってしまうのである。
by. 桜井章一氏
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あきらめるということは、
頑張って力が入っている状態から、
無駄な力みをとってくれる効果もあるのだ。
ただ、ほんとうに一〇〇%あきらめてしまえば放棄という形になるので、
正確にいえば「あきらめてあきらめない」感覚というべきかもしれない。
現実の世界で、
感動がないことの裏返しとして感動物語が流行るように、
お笑いがこれほど人気を博すのは、
現実の生活に笑いがあまりないからなのかもしれない。
道場なんかでは誰よりも一番よく笑っているし、
みんなが笑える状況をいつも率先してつくりだしている。
by. 桜井章一氏
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「楽しくなければ道場じゃない、会長は楽しくなければ会長じゃない」
という標語が壁に貼ってあったが、
道場はほんとうにいつも笑いに満ちている。
同じように、
「楽しくなければ人生じゃない」
と思ってもいいのではないだろうか。
「幸福だから笑うのではない。
笑うから幸福なのだ」
といったことをある人がいっていたが、
まさに笑いは人に波のように伝わって、
幸せな気分にさせてくれるのである。
人間の体が本来持っている感覚の世界は、
それに触れるとなんともいえず気持ち気持ちがよくなるものなのだ。
by. 桜井章一氏
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笑いというのは、よく考えると不思議な感情だ。
笑いは常識や社会のルールから一瞬、
人を解放し、
何ものにもとらわれない伸びやかな気持ちにさせてくれる。
もしこの世に幸せをはかるモノサシがあるとすれば、
それは人生において天然の笑いがどれだけあったかで決まるのではないだろうか。
それにしても、
人はなぜだれかを尊敬したくなるのだろうか。
by. 桜井章一氏
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それは水が高きから低きに流れるように、
下にいる人間は上にいる人間が何か価値あるものを授けてくれるだろうという期待を、
どこかにもっているからだと思う。
価値あるものとは、
知識や生き方やコネや金である。
私は知識のある人や能力のある人、
あるいは地位のある人やお金のある人などから、
別に何も学ばないし、
何かを授かろうとも思わない。
反対に、世間的に尊敬される人たちとは逆の下にいるダメだと思われているような人たちから、
むしろ多くのことを学んだりしている。
by. 桜井章一氏
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たとえば道場にいる子たちからは、
いつもいろいろなことを教わっているし、
形にならないたくさんのものをもらっていると思っている。
「ああ、なんでこんなことをするんだろう?」とか、
「ほんと人間というのは幅の広い生き物だな」とか、
彼からほんとうにさまざまなことを学ばせてもらっている。
このように、
上より下の人間のほうがはるかにたくさんのことを教えてくれると思っていることが、
私が尊敬する人をもたないもう一つの理由である。
上にいる人から何かを学ぼうというのは、
自分もまた上にいきたいという欲があるからである。
by. 桜井章一氏
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その意味で尊敬する人から学ぼうという姿勢には、
どこか卑しいものも混ざっていたりすると思う。
もしあなたが尊敬を掛け値なしに美しい感情と思っているなら、
それはとんでもない錯覚だと思っておいたほうがいいのである。
「自分は正しい」とか「〇〇はこうあるべきだ」
と強い思い込みをもっている人は、
いったん引っかかることがあると、
周りとの落差からますます自分を追い込んでいきがちだ。
私がこれまで絶望にとらわれたり、
深刻になったりしたことがなかったのは、
ヨットのように、
いつも「風」が自分を動かしていると感じながら生きてきたせいかもしれない。
by. 桜井章一氏
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もちろん、
人が動かしてくれている部分もあるが、
最終的には風が私の人生を動かし、
風が決めてくれたような気がする。
風というのは正確な言葉にするのは難しいのだが、
あえていえば自然の感覚から生まれた何かである。
そんな風まかせな生き方をしているから、
苦しいことがあってもそれをさっと早めに片付けてしまえるのだと思う。
自分のなかで苦しみを抱え込み、
知識や思考に頼って「こうあるべきだ」とか
「こうするべきだ」といった強い気持ちでその苦しみを膨らますことがないから、
悩みの迷路にはまらずにすんだのだと思う。
by. 桜井章一氏
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私はちょっと辛いことや嫌なことがあると、
「たいしたことない」「知ったこっちゃない」
という二つの言葉をよく口にする。
人は目の前にある苦しさにとらわれると、
人生がすべてそれで塗り固められてしまうかのような気分になったりする。
だが、冷静に眺めると、
いま悩んでいることは自分の人生のごくごく一部にすぎないことが見えてくる。
仮に現在自分に起こっていることが一〇〇個あるとすれば、
その悩みはそのなかの一つにすぎない。
by. 桜井章一氏
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そう考えれば、
行く手を遮るかのような悩みでも、
「たいしたことない」と思えるはずだ。
しかし、そうとらえるには、
ふだんから感情の整理整頓ができていないといけない。
そうでなければ、
その一〇〇個がぐちゃぐちゃになって、
一〇〇分の一という冷静な見方ができなくなってしまう。
もう一つの「知ったこっちゃない」については、
自意識というものと密接な関係がある。
by. 桜井章一氏
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人はけっこう誰でも自意識過剰な面をもっているものだ。
自意識過剰というのは他人の芽を必要以上に意識するということだ。
だが人は、
こちらが思っているほど関心をもってくれないものである。
人からどう見られるようと「知ったこっちゃない」し、
すんでしまったことは「知ったこっちゃない」のだ。
by. 桜井章一氏
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生きている限り、
辛いことや嫌なことはいくらでもある。
問題の起こらない人生なんてないのだ。
「たいしたことない」と「知ったこっちゃない」。
この二つの言葉は私にとって、
マイナスの感情を膨らませないための何よりのおまじないなのである。
悲しくて泣きたいのに我慢するのは、
悲しい感情を否定することにもなり、
余計に悲しさを募らせる結果になるものだ。
by. 桜井章一氏
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