■感情を整える ここ一番で負けない心の磨き方 -PHP研究所-
いつもきびしいほうを選んでいれば、きびしいことでも徐々に楽にこなせるようになるのだ
人は誰しも心の奥に孤独感や寂しさを抱えていたりする。
ここまで寂しいと感じている人が多いのは、
現実の社会で生の感情を出し合ったり、
それを共有し合ったりする機会が少ないからである。
悪循環を断とうと思えば、
まずは生身の人間とどんどん接することである。
そして合理的に人間関係をとらえずに、
天然の感情をできるだけ素直に出していくことである。
by. 桜井章一氏
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後に残った怒りの感情がしつこい恨みへと変わるのだ。
恨みが強いと、
時間が経つほど根が張ってしつこいものになったりする。
だが、お化けや幽霊なんかよりもよほど怖いのは、
恨みを抱いた生身の人間である。
強い恨みの感情はそれが晴らされない限り、
長い歳月を経てもずっと残ったりするということだ。
by. 桜井章一氏
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表面からはわかりづらい恨みの念が深く渦巻いている社会。
そんな気味の悪い社会に日本はなっているのかもしれない。
そもそもなぜあなたは相手に怒り、
それを恨みへと変えていったのか。
あなたが怒ったのは、
勝ち負けでいうと相手に負けたからである。
by. 桜井章一氏
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それもただ負けたのではなく、
相手が反則技を使ったり、
ズルをしてフェアでない勝ち方をしたからだ。
フェアな戦い方をして負ければ恨みなど残らない。
それを相手は有利な立場を利用したりして汚いやり方で勝ってしまった。
だから許せない、となるのだ。
by. 桜井章一氏
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目の前の現実を一生懸命に生きることだ。
仕事でも生活でも気持ちを込めながらも淡々と、
右から左へとこなしていく。
そうやって日々を重ねていけば、
あなたは自分への信頼感をしっかりもてるようになるだろう。
自分への信頼感とは言い換えれば自信だ。
根っこのしっかりした自信ができれば、
余裕をもって過去を振り返ることができる。
by. 桜井章一氏
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競争心がなければ、
嫉妬は生まれようがないからだ。
幸か不幸か麻雀の神様は私にはとても優しかったのだ。
麻雀を始めた頃は、
勝つことにひどくこだわった時期もあったが、
やがて勝敗を気にするより、
ひたすらいい勝負をすること、
そして強くなることだけを考えるようになったからだ。
だから、
もし負けても納得のいく戦い方をしていれば、
悔いはないし、
相手を羨む気持ちなどもたなかっただろう。
by. 桜井章一氏
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そういえば、
将棋の羽生善治名人も以前お会いした際に
「勝つとか負けるといった先にあるものを、
いつも追い求めているような気がします」
ということをいわれていた。
自分とあまりにもかけ離れた存在は羨ましく思っても、
嫉妬の対象にはならないのだ。
それは私がかつて麻雀の勝負をしていたときにそうだったように、
競うのは相手でなく、
最終的には自分と戦っているのだと思うことだ。
自分に勝てるものだけが真に勝負に勝つのである。
by. 桜井章一氏
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自分が納得のいく勝負をしているか、
納得のいく準備をし、
納得のいく行動をとっているか、
それに尽きるのである。
たとえ勝っても卑怯な勝ち方であれば、
それは自分との勝負には負けているのであり、
そんな戦い方をしている限り、
嫉妬の感情からは自由になれないだろう。
嫉妬の感情を軽くするもう一つの考え方は、
嫉妬を楽しさに変換することだ。
嫉妬が苦しいのは、
自分を追い込む感情だからである。
by. 桜井章一氏
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だが、苦しさのほうに追い込むのではなく、
楽しいとか喜ばしいという感情に変えることは可能だ。
簡単にいうと、
嫉妬を感じる相手に、
「幸せになれてよかったね」
「ラッキーでよかったね」
「いい仕事ができてよかったね」
「楽しい時間がもててよかったね」と、
一瞬でも思ってあげるのである。
すると不思議と気持ちに余裕が生まれてきたりするのだ。
その瞬間、
「自分は自分らしくやりさえすればいいんだ」ということに、
ふと気付いたりするのである。
by. 桜井章一氏
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嫉妬をぶつけられるのは自分にとって都合の悪いことかもしれないが、
だからといって都合のいいものばかりを受け取るわけにはいかないのが人生だ。
半分の人が自分を肯定してくれれば、
もう半分の人は自分を否定しても仕方ないなと私は思う。
嫉妬の感情をもし人からぶつけられても、
半分の人が自分を肯定してくれていればOKなのだと思って、
スルーすればそれですむ話なのである。
麻雀で勝負をやっていた頃、
私は楽な道が目の前にあればあえてそこに進まず、
きびしい道を選ぶようにしていた。
by. 桜井章一氏
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きびしい道は楽な道に比べて圧倒的に手数が増える。
そうやって勝負師としての己を磨いていたのだ。
楽な道を選んでいたら必要のない知恵やら工夫やら行動といったものが求められるが、
いつまで経っても力がつかず、
いざきびしいこと、
困難なことが起きても、
それに対処することができない。
いつもきびしいほうを選んでいれば、
きびしいことでも徐々に楽にこなせるようになるのだ。
by. 桜井章一氏
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そんな習性がいまだに残っているのか、
私はいまでも自分にとって嫌だと思うことをあえてすることがある。
私は人を効率と便利とお金の道具にしてしまう経済の論理というものから、
距離を置きたいといつも思っているからだ。
ルールにとらわれず、
素のままに自由に生きればいいのだということを少しでも感じてくれればそれだけでOKなのだ。
そもそも私はどんな相手であろうと媚びるということをしない。
by. 桜井章一氏
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社長の人間性に惚れていた私は、
社長に対してはただ自分の素直な気持ちだけでいつも接していただけである。
そこには当然、
なんの計算も媚びもなかった。
媚びるのはそもそも自分が弱い立場にいると思うからである。
すなわち立場が弱くて、
欲の強い人間ほど媚びることも多くなるといえるだろう。
by. 桜井章一氏
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媚びる相手は何も人間だけではない。
金が好きな人は金に媚びるし、
権威が好きな人間は権威に媚びた生き方をするのである。
媚びてばかりいる人間は必ず卑しさが顔に出てくるものだ。
人がそれぞれにもっている「矜持」を汚してまで媚びるのは、
人生をどこかで投げているのと同じだからである。
by. 桜井章一氏
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どんなときでもあきらめないで頑張るというのは、
別にいいことでもなんでもない。
ここであきらめずに頑張れば、
かえって非常に危険だというときに、
それでもあきらめなければその人は自滅するだろう。
つまり、人生にはあきらめたほうがいいものと、
あきらめないほうがいいものの二つがあるということだ。
あきらめるという言葉には後ろ向きな響きがあるが、
じつは決断するとか、
切り換えるとか、
見切るとか、
執着を捨てるといったかなり積極的な意味合いをもつ言葉なのだ。
by. 桜井章一氏
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