■雀鬼流。~桜井章一の極意と心得~ -三五館-
見なくてもいい、聞かなくてもいい、言わなくてもすんでしまう、見なくても見えてしまう、という達人のレベル
見えないものを見るということは、
無意識の領域で見るということです。
私の場合は、
無意識部分で入っていって、
意識に上げてきて戻す、
という感じです。
こういう境地といいますか、
能力を獲得する前は、
「岩の時代」があった。
私にも、頑張って、
一生懸命に見ようとする時代があったのです。
by. 桜井章一氏
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麻雀を覚えて以来一度も負けたことがなかったのは、
麻雀を覚える前に「岩のレベル」をある程度卒業していたからではないでしょうか。
私は、子どもの頃から人並みはずれて勘が良かったんです。
勝負の最中は、奥歯をグッと噛み締めていたのです。
夢中ですから、意識していなかった。
そのときは、きっと私の額には青筋が立ってたはずです。
ちなみに、その青筋が立った形相の凄さから、
「雀鬼」というニックネームがついたのです。
by. 桜井章一氏
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知性・理性・悟性をすべて否定するつもりはないんですが、
雀鬼流では、「感性で打て」ということを教えている。
多くの人は、
麻雀を数のゲームとして見ることで知性のゲーム、
頭脳プレイとして捉えてしまう。
私にいわせれば、
「牌は絵なり」「麻雀は数ではなく絵だ」ということです。
by. 桜井章一氏
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私の麻雀には、
美意識が働いている。
配牌を見て、
汚いと感じたらメンツが揃いそうなときでも切っていく。
心を動かす、
感動を起こす、
感性を高める、
生活にエネルギーを起こす、
そういう気持ちを生じさせてくれる「絵」が、
残らなければいけないのです。
by. 桜井章一氏
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気をつけなければならないことは、
「感性を信じれば良い」とはいっても、
感情のわがままや勝手とは違うんです。
皆さんは、
勝手に生きることを、
自由だと思っているんです。
勝手と自由をごっちゃにしてしまっているわけなんですが、
自分が自由に生きたいためには、
勝手は許されないんです。
自由に生きることには、
自分の自由な言動への責任が伴うのです。
by. 桜井章一氏
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牌を並べて打てる人でしたら、
日本に数千万人はいるでしょう。
その中でも、
ピン・ボケでない打ち方ができる人、
仕上がりの構図まで考えて打てる人となると、
ぐっと人数が減ってくるはずです。
ましてや、
被写体を心の目で捉えて、
その本質を掴み出せる人となると、
ほとんどゼロに近くなってくるのではないでしょうか。
by. 桜井章一氏
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感性のレベルというのは、
努力や工夫を重ねた先に待っているものなんです。
何の努力もしたことのない人間にも、
感性はありますが、
そんな人が知っている感性とは根本的に違うんです。
「岩」のようなゴツゴツした力いっぱいのものが、
いつしか「水や風」のように柔らかに流れるものに変わっていくんです。
では努力さえすれば、
誰もが「岩」のレベルを超えて、
「水や風」の境地に到達できるものでもない。
by. 桜井章一氏
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しかし、「岩」のレベルに到達することも、
並大抵のことではない。
そして、「岩」のレベルに行っても、
もっともっと先があることを知った人は、
ふんぞりかえったりはしないものです。
ですが、私が力を抜けば、
私が気持ちよくなれば、
彼らは自分の身体がどこかへ消えてしまったように感じて、
抵抗できなくなって私のなすがままになってしまうんです。
そのときには、
おぶさっている私のほうでも、
私が消えているんです。
by. 桜井章一氏
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力技で何とかしよう、
と思っている方がほとんどですが、
大間違い。
力では、ある程度まではいけるんですが。
が、力には限りがある。
私が相撲を見ていて、
押しても駄目なら引いてみろ、
の人は、
やはり勝てません。
押しても駄目なら抜いてみろ、
のときに技が決まっている。
by. 桜井章一氏
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自分が力を抜くと、
相手の力も抜けてしまうんです。
人間みんな、
めいっぱいやればどうにかなる、
と思っているんですが、
めいっぱいやったとき、
逆にパッと力を抜いてみることで、
全然違う力が出てくるんです。
最初から力を抜いている人は、
何にもない。
力づくというのは、
つらいものです。
by. 桜井章一氏
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ですから、
往々にして人は、
頭で考える、
テクニックを身に着けるなどの楽なほうへ行ってしまうんです。
「力づく、力任せ、
ということを身体で覚えたら、
今度は力を抜いて、
力を出せる人間になりなさい。
それも身体で覚えなさい」と教えています。
「身体で覚えたら、次に、
自分の決めたとおりになるようにしなさい」と教えているんです。
つまり、自分が心で思ったことが現象化するようになるんです。
by. 桜井章一氏
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普通の人は、
頑張り続けるだけで終わってしまうんですが、
頑張ってみてパッと力を抜くコツを覚えていきますと、
頑張らなくても人よりも力を出せる境地というものが獲得できます。
日光に「見ざる、聞かざる、言わざる」という三匹の猿の彫刻があります。
人の非を見ない、人の非を聞かない、人の非を言わない、
という戒めを教えるものだという。
私にいわせれば、
それは、
見なくてもいい、
聞かなくてもいい、
言わなくてもすんでしまう、
見なくても見えてしまう、
という達人のレベルのことを指している。
by. 桜井章一氏
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その境地までいくためには、
その前段階でしっかり見る、
しっかり聞く、
しっかり言う、
という工夫はもちろんしなければならないのです。
とはいっても、
耳で聞けば、
聞こえてくるという単純なものではない。
たとえば、
音を聞くにしても、
心を落ち着け耳を澄ませてみれば、
いままで聞こえなかった音が聞こえてくることがあるはずです。
by. 桜井章一氏
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それを、
目で見たから間違いないとか、
耳で聞いたから言葉を交わしたから間違いないと思ってしまう人が多い。
「とんでもない。
それは、君が見たつもりのもの、
聞いたつもりのものであって、
もっと心を研ぎ澄ませれば、
そうではないものがいっぱい見えたし、
聞こえてきたはずなんだよ」
と私は話すのです。
同じ見るのでも、
心を研ぎ澄ませて見る、
あるいは音を聞くのでも聞こえない音を聞こうとする、
そうすると、
違ったものが見え、
聞こえてくる。
人の心(心理)を見るのでも、
ただ見ているだけで、
大きな変化は見えますが、
もっと見ようとして、
心を研ぎ澄ませば、
さらに見えてくる。
そうしたとき、
はじめて裏返しの牌も見えてくるのです。
by. 桜井章一氏
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