■この世の掟をぶち破れ! -李白社-
今できることは何か、自分には何ができるかということを考える。行動も頭も固まってしまえば死んでいることと同じだ。既製服の価値観を捨ててしまえば、どんな場面でも迷うことはない
遊びのうまいやつの体を観察して、
その動きを自分で覚えていく。
この遊びで習得した体の使い方というのは、
実はどんな分野でも通じてしまう。
体を使うものであればすべて遊びの延長だから楽しいし、
苦痛などない。
たとえば、激しいトレーニングで積んでつくりあげた体は、
何でも通用するなどということはない。
by. 桜井章一氏
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トレーニングで鍛えた体というのは短期間では身につくかもしれないが、
いつかは壊れて故障してしまう。
しかし遊びの楽しみの中で習得したものは無駄がない。
だから、一生役に立つ。
あなたが一番動ける時には、
悩まず(親の面倒を)世話するべきだと思う。
その動けるあなたも、
いつかはそっちの側に行くのだから。
by. 桜井章一氏
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元気がなくなっていく人に対して世話をすることで、
あなたが元気であるという喜びを感じることができるからだ。
あなたが一番動ける立場にあるのなら、
今やれる者が行動する。
できるうちに、
やるべきことは何でもやろうという気持ちのほうが大切なのだ。
自分がやれるのであれば、
やればいい。
by. 桜井章一氏
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今やるべきことを率先してやる。
そこには何か見返りも求めることはない。
やれる時にやっておくという感覚。
自分自身が動ける喜びを感じていれば、
何かができるはずだ。
自分が簡単に歩くことができるということに、
ありがたさを感じるはずなのだ。
by. 桜井章一氏
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自分だっていつか必ず歩けないようになる。
そのことに気づいていれば、
動ける今、何をすればいいかがわかる。
だから、今できることは何か、
自分には何ができるかということを考える。
むしろ、自分が動けるという感覚に気づく素晴らしい機会なのだ。
by. 桜井章一氏
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私はその孫(五番目)を抱いた時、
本当に天使の羽が生えているを見た。
あと数ヶ月すれば物に興味を持ち、
それをほしがる人間として成長するであろう孫に、
まだ人間になっていない純粋な生命を感じたからだ。
おそらく、それが天使の羽となって見えたのであろう。
孫の代わりに、
今度は私がその羽をつけて天国に旅立つのだなと。
by. 桜井章一氏
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人間の死というものは、
行動できなくなって固まることだと思う。
ゆえに思考も行動も固まっている人間は、
生きて死んでいるも同じだと思っている。
それゆえに、私は死よりも思考や行動の停止のほうが怖いと思っている。
人は必ず死ぬということに、
絶えず気づいていないといけない。
by. 桜井章一氏
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それをもがき、長生きするために、
健康食品を摂って死を延ばした気になっている生き方から不安が取り除かれることはないだろう。
長生きできるということも、
また幻想にすぎないことに気づいたほうがいい。
自然のままにしか人は生きられないのだから。
むしろ私は、
頭が固まるほうが死よりも最悪だと思っている。
by. 桜井章一氏
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行動も頭も固まってしまえば死んでいることと同じだ。
ならば、動けるうちに動くことだ。
それももがくのではなく、自然に。
己の死に対して不安になるのは、
いってみれば意味のないことである。
私は死を大きな問題とはとらえていない。
by. 桜井章一氏
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親から子へ、そして孫へ、
時間は絶えず流れている。
その時間の流れの中で自分の死がどの時間軸でやってくるかはおおよそ見当がつくはずだ。
だから私は、そうした時間の流れの中で死を感覚的に知っている。
命は親、子、孫へと引き継がれる。
そんな流れの中で自分の死をとらえたら、
死というものもそんなに悪いものではないと思えるのだ。
by. 桜井章一氏
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私は自分らしさを失った、
画一的な生き方を洋服になぞらえて、
「既製服の生きざま」といっている。
既製服は、あらかじめ決められたデザイン、
決められたサイズ、
そして何よりもみなが同じ服を着るという安心感を与える。
私はスーツが悪いというわけではないが、
なぜみながスーツを着て仕事をしなければならないのか、
そういう社会に疑いを持っている。
しかし、これに何の疑問も持たない大人たちは、
既製服の生き方を子どもたちまで押しつけている。
by. 桜井章一氏
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その子に合った洋服を着なさい、
オーダー服の生きざまをしなさいと親が導いてあげるころができないでいる。
「どこそこの大学に入りなさい、仕事はこういうものを選びなさい」と既製服の生きざまが素晴らしいことのように毎日教えている。
しかし子どもは、
既製服を着せられたまま社会に出るから、
かえって本人は悩む。
ましてや、既製服が当然と思い、
そこに疑問を持たない大人たちは、
自分らしさを見いだせないまま何がおかしいのか気づかないままである。
by. 桜井章一氏
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そうして「既製服の姿に身を包むことが立派だ」という思いが、
どこかで自分らしさと乖離して悩んでしまうのだ。
しかし、既製服の価値観を捨ててしまえば、
どんな場面でも迷うことはない。
私は、自分の洋服を着ているんだという気持ちを常に持って生きている。
だから、どんな時でも自分は自分で通ってしまう。
by. 桜井章一氏
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子どもの頃から、
既製服が立派だと育てられてきたあなたに、
「その既製服を捨てろ」というのは簡単ではないかもしれない。
しかし、それを捨て去ることでしか自分らしさが生まれないのも、
また事実だ。
「地」を出せないという人は、
自分の悪い部分、
できない部分を表にさらけ出すことに怖さを感じているからにほかならない。
自分の悪いところまでパッと出せる、
自分の壁を乗り越えた人間が仲間になっている。
by. 桜井章一氏
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