■「頑張らない」から上手くいく -講談社-
枠にはまらず、入ったり出たりを繰り返していくと、人間が元々持っていた生命力や五感のようなものを目覚めさせ、さらに磨いていくことができます
社会の常識やルールといった枠の中で生きていくのがいいのか、
それとも枠にはまらずに生きていくのがいいのか。
それは私にも分かりません。
ただひとつ言えるのは社会の枠にはまらずに生きていると、
人生の歩み一歩一歩に人間の根源、
あるいは生命力のようなものを感じることができます。
社会の常識とされることにいつも疑問を感じています。
by. 桜井章一氏
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でもそんな疑問のおかげでいろんな発見があり、
そこから導き出された私なりの答えによって、
人としての道を踏み外すこともなく今まで生きてくることができました。
枠にはまらず、
入ったり出たりを繰り返していくと、
人間が元々持っていた生命力や五感のようなものを目覚めさせ、
さらに磨いていくことができます。
その意味で風任せの人生とは、
非常識な生き方ですが、
人間本来の生き方ともいえるのです。
目の前に楽な道と苦しい道があれば、
私は迷うことなく苦しい道を選びます。
by. 桜井章一氏
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小さい頃から他の人ができそうもないことや、
思いもつかないようなことに挑戦していくことに喜びを見出してきました。
未来に続く道は見えないものであって、
試行錯誤しながらその場その場で臨機応変に、
的確な対応をとって進んでいくしかないのです。
「既存の道」、
つまり「見える道」にはなんの魅力も感じないのです。
でも私はそこ(見える道)から必ずはみ出したくなる。
by. 桜井章一氏
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そして気がつけば
「見えない道」にいるのです。
「見えない道」を歩いているといろんな物事に遭遇します。
あるいはそういった未知の物事に引っ張られて前へ進んでいるのかもしれません。
「見えない道」を進むのは、
真っ暗闇の中を手さぐりで進んでいくようなものです。
by. 桜井章一氏
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「怖いから暗闇を進んでいくなんてことはできない」
という人もたくさんいると思います。
でも、暗闇も目を慣らせば何かがうっすらと見えてきます。
暗闇は決して怖いものではないのです。
多くの人は目が慣れてくる前に、
「不安だから明るいところへ行こう」と
「見える道」に戻ってしまうのです。
by. 桜井章一氏
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「見えない道」を行くことは、
人生を自分の手で作っていくわけで、
「見える道」を進む時には得られない達成感や納得感があるからです。
本来、人生とは「見えない道」
進んでいくものです。
それなのに「見える道」ばかり進んでいると、
道が見えなくなった時に泡を食うだけでなんの対処もできなくなってしまいます。
寄り道をするように、
たまには「見えない道」に歩を進めることも大切です。
by. 桜井章一氏
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「見えない道」の暗闇に目を慣らすことを覚えておけば、
いざという時に必ず役に立つのです。
世の中の「善し悪し」などというものは、
時代とともに変わっていく、
実に当てにならないものです。
しかし、いつの世も大衆はその
「善し悪し」に流され、迎合し、
自分なりの判断基準というものを曖昧にしてしまいます。
最近の親たちは、
私から見ると子どもたちに「いい子」ではなく、
「個性」を求めているような気がします。
by. 桜井章一氏
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個性とは、言い換えればその人の性格です。
性格は人間であれば誰にでもあるものです。
人間はその性格に則って生きている。
ということはつまり、性格のない人間がいないように、
個性のない人間もいないということです。
大人たちも個性、個性と言いながら、
その実画一的な生き方をしている人がほとんどです。
by. 桜井章一氏
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私は、人間という存在自体がそもそも尊べるものではないと思っています。
オギャーと生まれた無垢な赤ん坊には尊べるところがあると思いますが、
人間は年齢を増すごとに魂が汚れ尊べる存在ではなくなっていくと感じるからです。
尊べない存在である大人が、
子どもたちの個性を真の意味で尊重できるなどと私には到底思えないのです。
「空気を読む」ということに神経質になりすぎると、
心がそこに囚われてしまいます。
by. 桜井章一氏
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それは結果として、
誰かにその空気を押しつけるということにもなりかねません。
空気を読むにしても、
四六時中空気を読んでいるのではなく、
必要な時に空気を読む。
必要に合わせて場を読んでいく。
空気を読むということは、
もう少し大きく捉えれば
「社会の風に合わせる」ということです。
by. 桜井章一氏
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空気を読むことに心が囚われるあまり、
「多いほうが正解ではないか」と錯覚し、
さもそれが自分の意志のように振る舞ってしまうのです。
そういうことを続けていると、
終いには自分を見失ってしまいます。
本当に空気の読める人というのは、
その場の雰囲気を察するだけでなく、
その場の空気が悪ければその空気を新鮮な空気に入れ替えることもできます。
「優しい人」というのは、
「いい人」と言い換えてもいいかもしれません。
by. 桜井章一氏
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しかし、普段から親が優しさだけを求めていると、
子どもは上辺だけ「優しさ」を身につけるようになります。
上辺だけの優しさを身につけた子どもは、
「好かれたい」「よく見られたい」
という気持ちの一部分がとても強くでてきます。
つまり上辺だけの優しさというものは、
演技でしかないのです。
親が子どもにいい子を求めるのは、
実は親自信がいい人に見られたいという気持ちが強いからでもあるのです。
by. 桜井章一氏
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その子が本当に優しい子なのか、
それとも演じているだけなのかは目を見れば分かります。
演じているだけの子は目をそらした時に本心が表情に表れます。
さらに優しい子の中には、
自分が弱いがために人の頼み事を断ることができず、
なんでも「いいよ、いいよ」と受け入れてしまう子がいます。
「ノー」と言えない子どもの中には、
それが自分にとって損なのか、得なのか、
そんな損得勘定ばかりしているために「ノー」
と言えない子がいます。
by. 桜井章一氏
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親が損得勘定だけで生きていれば、
子どもも知らず知らずのうちに損得に囚われた考え方になってしまうのです。
何事もそうですが、
子どもについて物事を正すのであれば、
まずは親の側がしっかりと正すべきではないでしょうか。
実際に何が正しいのかの判断がつかなくて、
世間がやっていることをするのが正しいんだという安易な行動になってしまうのです。
ところが、世間の常識というのは正しくないことや、
負のものもたくさんあります。
by. 桜井章一氏
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