■20年間無敗の雀鬼が明かす 「勝負哲学」 -三笠書房-
有形無形の様々なものを人から借りれば借りるほど、人間は弱くなっていく。何かひとつできればそれでいいという教育からは、強い人間は育たない
つまり、才能を磨くというのは、
言い換えれば、
修正力を身につけるということなのだ。
この世には「不変であること」の価値を認めるような言葉や概念がたくさんある。
たとえば、風というのは、
量や姿かたちを変える。
微風、強風、熱風、そよ風、突風…。
そんな風に風邪が変わる。
by. 桜井章一氏
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もちろん風向きもコロコロ変わる。
けれども、風の本質は変わらない。
風というものはひとつなのだ。
つまり、本質的な不変の部分と絶えず変化している部分を自分の中で整理できているかどうかだ。
私はさまざまな言葉を受け止めるとき、
「この言葉は強さからくる言葉か、
弱さから出てくる言葉か」
という判断をするが、
「信念」という言葉は、
どう見ても弱さからくる言葉だ。
by. 桜井章一氏
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「動かざること山のごとし」と言っていても、
次の瞬間「速きこと風のごとし」というわけだから、
変わり身の話である。
風も林も火も山も自然のもの。
「信念」のように人が頭で考えた言葉とは違うから強い。
貸したの返したので儲けようとするのは、
人の道からみれば、
しょせん邪道でしかないのだ。
人間、金を借りたらダメになる―――。
by. 桜井章一氏
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金を借りるという行為は、
かならず罪を生む。
その罪は、
その人間が性悪だから犯すのではなく、
借りるという行為が人間を歪めた結果なのだ。
誰しも、金を借りるときは
「きっと返す」「かならず返せる」
と思って借りる。
ところが、実際には返せなくなる事態が頻繁に起こる。
by. 桜井章一氏
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そうすると、言い訳をしたり、
ごまかしたり、
ウソをつかなければいけなくなる。
そのうち、なんとか返そうと思うあまり悪事を働かなければいけなくなる。
社会の様々な事件のうち、
金の貸し借り端を発したものがどれだけ多いことか。
金を借りるということの恐さはそこにある。
金を借りたばかりにコソコソしなければならないぐらいなら、
どんなに金が足りなくても貧しくても、
金を借りずにいたほうが堂々と生きられる。
堂々と生きていれば、
視野も広がり、
いまは運がなくてもいつかはチャンスがやってくる。
by. 桜井章一氏
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コソコソ生きていれば、
視野も狭くなり、
チャンスに出会うことすらできなくなってしまう。
もし私という人間の中に、
強さの秘訣らしきものがいくらかあるとしたら、
そのひとつは、
おそらく「借りないこと」である。
いわゆる恩とか義理とか、
有形無形の様々なものを人から借りれば借りるほど、
人間は弱くなっていく。
借りることの根底には「楽をしたい」
という心理があるが、
それでは当然強くなることなどできないのだ。
by. 桜井章一氏
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たとえば、誰かの世話になって就職したり商売でメリットを得たりすると、
世話をしてくれた人に対して
「借りている」感覚になるはずだ。
そういう感覚を抱いたままで、
もしその世話をしてくれた人と何かの拍子で競い合わなければならなくなったとしたら、
この勝敗は目に見えている。
借りが多い人というのは、
たとえ世話になった人と直接的に勝負することはなくても、
あちこちに借りを増やしているうちに、
負い目や依存心も増えていき、
自分を信じる力が失われていく。
つまり、弱くなっていくのだ。
by. 桜井章一氏
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けれども、もし私が
「あ、今回は、この人に世話になったな」
と思うようなことがあったら、
感謝の心を深く胸に刻むと同時に、
その恩や義理をかならず返すことを心に決める。
「もし、この人が何か困ったときや俺の力を必要とするときがきたら、
何をおいても尽くそう」
そう心に決め、
そのときがきたら実践すればいい。
どんな形でもいいから返す。
それが大事なのだ。
私は強いものを見るために自然の世界に出かけていく。
by. 桜井章一氏
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海に出かけ、潮の満ち干や荒波を見ると
「これはかなわないな。
人間なんてひとたまりもない」
と感じることができる。
私は恐怖心の前にあこがれの思いが先に立ってしまうのだ。
自然の中に入ると、
私は自分の弱さを実感する。
「ああ、自然には勝てない。
俺は弱い生き物なのだ」
そう謙虚な気持ちになれる。
by. 桜井章一氏
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何かひとつできればそれでいいという教育からは、
強い人間は育たない。
私は何よりも「循環」
を大事にしているということはすでに書いたが、
その考え方を実践するためには
「まんべんなく」「片寄らない」
という姿勢がなければいけない。
専門家とかプロというのは、
いわば片寄っているということだ。
片寄ったプロになるより、
まんべんないアマチュアでいるほうが、
様々なことに対応できる。
by. 桜井章一氏
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人間社会は、ものをつくってそれを蓄えるようになってから、
専門家というのが出てきた。
みんながそれぞれの専門分野にわかれ、
自分の専門のことしかできなくなっていった。
それで対処できなくなることが起きると、
その道の専門家に任せきりにする。
そのうちに依存心が強くなって、
自分の仕事以外、
何もできない人間ばかり増えてしまったのだ。
by. 桜井章一氏
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これからの時代、
専門的になろうとするよりも、
アマチュア感覚をとり戻し、
まんべない人間であろうとする者が強くなれるのではないか。
勝負をしたいとか勝ちたいというのであれば、
勝負してくれる相手の存在がどんなに大切であるか、
それをまず改めて認識しなければいけない。
世の中というのは、
あらゆることが相対関係の中で成り立っているのだ。
麻雀においては、
もっともいい麻雀というのは、
4人に相互の信頼関係が生じているときだ。
by. 桜井章一氏
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自分ひとりだけがどんなにいい麻雀を打っても、
そこには何も生まれないのである。
敵のために麻雀を打て。
麻雀というのは、
自分と一緒に打ってくれる人のために打つもの。
自分のために打つのではないし、
自分が勝つために打つのではない。
by. 桜井章一氏
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自分がいい麻雀をする状態をつくりあげるためには、
相手のために打たなければいけないのだ。
敵でありながら信頼関係がある。
それがいい勝負になっていくのだ。
修正力があれば、
自分のマイナス感情を消すこともできる。
世の中、いやなことはある。
いやなことは起こる。
だが、そのいやなことに執着してしまうと、
いやなことしか起こらない。
by. 桜井章一氏
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