疑うからこそ、よく観察するようになるんです。何かができるから誉められたり、喜ばれたりしているうちは、大したことありません

■「育てない」から上手くいく -講談社-

疑うからこそ、よく観察するようになるんです。何かができるから誉められたり、喜ばれたりしているうちは、大したことありません

子どもを信じることが大事だといっても、
いつだって正しいと思うのは間違いの元になる。

疑うからこそ、
よく観察するようになるんです。

「子どもを信じる」とか
「子どものことはわかってる」
と思っていたら、
観察がおろそかになっていくものです。

疑うとは、
繰り返しになりますが猜疑心のように
「きっと悪いことをしているに違いない」
といった目で見ることではありません。


by. 桜井章一氏

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そうではなく、
「大丈夫かな?」
「なぜなんだろう?」
と問うことです。

信頼を持ちつつ疑ってみる。

「半信半疑」は決して中途半端な姿勢ではありません。

愛というものの裏側には依存心といったものが張りついているものです。


by. 桜井章一氏

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愛はその性格上、
相手への依存という傾向を強く持っています。

人間は生まれてしばらくは自分で動けません。

乳を飲ませてもらったり、
抱っこしてもらったり、
依存心は人間に生まれついてのものなのです。

そしてこの依存心は大人になっても形をかえてあり続けます。


by. 桜井章一氏

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孫と接する時間は、
私にとってとても大切ですが、
では孫に愛を感じるかというとそれはちょっと違うものがあります。

そこには愛を超えた本能的な力を強く感じるからです。

孫を見ていると、
「ああ、もう俺の命もおしまいの時期だから、俺の命の入れ替わりとして生まれたんだな」
と感じます。

まるで自分の命そのものを見ているような気がするのです。


by. 桜井章一氏

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孫は本能的な感覚がもたらす絆というものを教えてくれますから、
そこにわざわざ愛を持ち出す必要がありません。

ややもすると愛は相手に大きな負担をかける依存心にも転化するものです。

親は愛などという観念でなく、
本能的な感覚でもっと子どもと接していったほうがいいと思います。

親は子どもに対して立派に振る舞おうとしますが、
それは子どもにとってはむしろ負担になるものです。


by. 桜井章一氏

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孫には「爺ちゃんはなんでもできる」
という思いがあるようですが、
そういう期待に沿って頑張ることを私はしません。

できないことをどんどんさらけ出すようにしています。

孫も「爺ちゃんもできないんだ」
とわかると、楽になります。

「できなかったらどうしよう」
「できないことは恥ずかしいことだ」
というプレッシャーや不安をそこで取り払ってあげられます。


by. 桜井章一氏

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子育ては、親が「できる」
ことを教えようという方向でなされるものですが、
反対に「できない」という教えによって効果的に伝えられることもたくさんあるのです。

親が自分のダメなところを恥ずかしがって隠すから、
子どもはダメなことに対して否定的な考えを抱き、
ごまかそうとしたり、
できないところのある子どもをバカにしたりいじめたりするのです。

結局、親が自身のダメさを認められないのは、
「できる・できない」にこだわり過ぎているからです。

いつも正しいことばかり、
ちゃんとしたことばかりを子どもに教えていると、
教えるほうの親は一〇〇%正しいわけではないので、
親は嘘をついていることにもなります。


by. 桜井章一氏

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いいものを目指す人は、
ダメなところに見向きもしません。

でも、私は優秀な人や偉い立場の人よりも、
世間からダメと言われている人から学ぶことが本当に多いのです。

何かができるから誉められたり、
喜ばれたりしているうちは、
大したことありません。

たとえできなくても、
存在として恰好がよければ、
わざわざ背伸びする必要がありません。


by. 桜井章一氏

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■瞬間力 ~逆境を乗り切る方法~ -竹書房- 本当のスピードというのは、無駄のないところから生まれてくるものなんだよ ...

ダメなところ、
できないところも含めてありのままを見せてきたつもりです。

女の子は小さいうちから「誉めて欲しい」
という気持ちが強いようで、
誉めてもらおうという行動をよく見せますね。

男の子はどちらかというとそうした気持ちが弱い。

たとえ子どもでも、
誉められることを求めないほうが男として恰好いいなと思うからです。


by. 桜井章一氏

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こうしたことよりも、
もっとはっきりと感じる男女の違いと言えば、
男は耳で存在を把握し、
女は目で確認するという感覚的なものでしょうか。

たとえば、子どもたちを観察していると、
母親が姿を消したとき、
男の子は関心ない様子で遊んでいても、
母親を耳で追っているのがわかります。

遠ざかる足音を感じています。

男の子は見えない壁の向こうを感じ、
女の子は見える範囲を把握しようとしています。


by. 桜井章一氏

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太古の昔、
男は動物を追いかけるとき、
姿を見失ってしまうことがしばしばあったと思います。

それゆえに動物の存在の気配に耳を立てるという感覚が発達したのではないでしょうか。

一方、女性はお乳を与える行為をはじめとして、
子育てや身の回りの生活行動において直接的に対象と関わろうとする傾向が強いと思います。

それゆえ直に見るという感覚が発達したんだと思います。


by. 桜井章一氏

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子どもにとっては、
しっかりと抱かれる安心と身近さを感じるかもしれませんが、
それが強すぎると
「私の言うことを聞きなさい。あなたのためよ」
という束縛にもなりかねません。

それに対し父親は子どもを大きく包むような感覚を持っていると思います。

このように、親も子どもも、
それぞれ男女の違いや傾向をふまえた上で、
接することが大事だと思います。

都会に住んでいるとどんどんナマの感覚から離れていくものです。


by. 桜井章一氏

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四里四方。

それを故郷と言うならば、
その故郷からどんどん人間は遠ざかっています。

でも、「りんごは本来これくらいの大きさ(山中に生っている原種)だったよね」
というような感覚を自分で身につけていないといけないんじゃないかと思います。

四里四方ではありませんが、
現代人は先に進むことばかり考えないで元へ戻る必要があると思います。


by. 桜井章一氏

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元といっても自分の生い立ちのことではありません。
それは人類の遥か昔の時代へさかのぼることです。

「人間はどこから来たんだろう」
と考えることがよくあります。

元をずっとたどれば人もミトコンドリアのような単細胞でした。

何も複雑に考えて複雑にばかり行動する必要はないと思うのです。


by. 桜井章一氏

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