■「育てない」から上手くいく -講談社-
世間の価値観ではダメだとされることでも人はプラスのものにすることができるわけです。我慢と喜びは私の中で分離できないものなのです
四里四方の感覚で生きる。
それは言い換えれば、
「地に足をつけた生き方」
をするということです。
しかし、いちいち自分の子どもが他の子どもより
「優れている」からといって安心し、
「劣っている」からといって不安になったりするならば、
それは親バカというよりたんなるバカだと思います。
自分の子どもは、
たったひとりしかいない、
かけがえのない存在です。
by. 桜井章一氏
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その唯一の存在をわざわざ他の子どもと比べて、
「物覚えがいい」といっては喜び、
「発育が遅い」といって悲観する必要はないと思います。
そうした比較するモノサシ自体が、
社会の価値観に則った決まりきったものにすぎないからです。
小さなものしか測れないそんなモノサシを当てはめて、
この子はダメとか優れているといった評価をするのは子どもがかわいそうです。
今ダメでも将来伸びる子もいくらでもいる。
by. 桜井章一氏
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狭いモノサシで簡単にダメとかいいとか子どもにレッテルを貼らないことです。
彼がそのままの彼でいてくれることで、
周囲をなごませたり、
楽しませてくれるからです。
世間の「できる」「できない」
の基準で彼を見るのではなく、
彼の人間的な魅力を周りのみんなが感じていればそれで十分だと思うのです。
世間の価値観ではダメだとされることでも人はプラスのものにすることができるわけです。
by. 桜井章一氏
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それだけ人は大きな可能性を持っているということです。
世間の狭いモノサシで子どもを測って、
簡単に善い悪いの価値判断をしないことです。
私は子どもはそんなにしつける必要はないと思っています。
しつけとは、
ある型に子どもを押し込めることです。
by. 桜井章一氏
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ですから、どこか無理な力が働く。
しかし、そんな無理なことをしなくても、
子どもはちゃんとした振る舞いをできるようになるものです。
というのは、子どもは親を観察して親の真似をするからです。
ということは親がちゃんと振る舞っていれば、
子どもはそれを真似して自然としかるべき振る舞いができるようになるはずなのです。
by. 桜井章一氏
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もっとも、親の振る舞いから子どもが学ぶには時間がかかります。
ただ「ダメ」というだけでは、
子どもの心にはなかなか届かないからです。
「ドタドタと歩く音が大き過ぎたかもしんないんだよ。
そこをもうちょっと抑えたら、たぶんあの人は怒らなかったかもしれないよ」
と、誰かが不快に感じた理由を説明して、
そこから行動としてあまりよくないことをわかってもらうようにします。
あるいは、急に大声を出して驚かせて、
「ほら、こういうふうに大きな声を出されるとびっくりするよね。
大きい音や声を”嫌だなぁ”と思う人もいるんだよ」
と言ってみるのもいいかもしれません。
by. 桜井章一氏
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そうやって、
「嫌な顔をされるのは、いま君が嫌なことをしたからかもしれないよ」
と感覚的に知らせていくのです。
一緒に食べる親が楽しそうに食事をしていたら、
子どもは興味を示します。
そういう雰囲気の食卓で日常ご飯を食べている子どもは、
好き嫌いがあっても放っておけば自然となんでも食べるようになっていくと思います。
きびしい顔をして親が子どもにしつけをしなくても、
親がいい振る舞いを心がけ、
楽しそうにしていれば、
子どもは勝手に興味を持ち、
おのずといろいろな場面での振る舞い方を覚えていくものです。
by. 桜井章一氏
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自分に自信や余裕のない大人ほど子どもを無闇に叱りつけるものです。
私は家族や道場生を叱ったことなどほとんどありません。
私はむしろ、
子どものそのような振る舞いに対して
「ありがとう」と言いたくなるときがあります。
それは、子どものその行為(粗相やいたずら)によって、
大人が見失った大事なことを思いもかけず教えてくれたりするからです。
by. 桜井章一氏
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安ければ目をつぶり、
高ければ怒る。
そんなバカげた大人の思い込みを孫は見事に打ち砕いてくれたわけです。
子どもはほんとに大人がしていることをよく見ている。
親がちゃんときれいに片付けるところをいつも子どもに見せて、
整理されたきれいな空間で育っていけば、
整理整頓をする習慣といったものは自然に形成されていくことでしょう。
by. 桜井章一氏
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子どもは抱かれたいときに抱かれないと、
その不満が無意識に残って、
大人になってからも絶えず何か満たされない思いを抱くことになったりするものです。
子どもの欲求というものは基本的に満たしてあげると、
むしろ親から、早い時期に未練を残さず離れていくと思います。
けれども、人は生まれたときから死ぬまで、
誰かのお世話にならずに生きることは、
一日たりともありません。
生きている以上、
誰かに迷惑をかけずにはいられないのです。
by. 桜井章一氏
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どこかで誰かに迷惑をかけながら生きていくのが人の宿命なのです。
だから、子どもが迷惑をかけたからといって、
やたらきびしい目で見たりしないことです。
たしかに子どもは怒鳴って育てるよりは、
誉めたほうがいいかもしれません。
でも、「また誉めてもらおう」
と評価されるために行動するようになれば、
目の前に人参をぶらさげてられて走る馬と変わらなくなります。
誉められるためにやるという動機が強い人間になると、
結局何でも報酬を期待して動くという行動パターンになります。
そこに人間の卑しさがくっついてくる。
by. 桜井章一氏
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つまり、ものごとに対して純粋な気持ちで取り組むという姿勢が育たなくなるのです。
誉める教育の落とし穴がそこにあるのです。
せいぜい、本当によくやったねというときや、
人に対して善いことをしたときに誉めるぐらいが調度いいのではないでしょうか。
子どもに限らず大人でも、
感情を理屈でなだめようとしても納得いかないことは多いものです。
by. 桜井章一氏
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ですから、こういう場合は、
感情の収まりがつかないことそのものを注意しないほうがいいのです。
孫は「ゲームをクリアできて当たり前」と考えて、
できないことに怒りを爆発させました。
孫は最後には、
「爺、失敗なんか全然気にする必要はないんだよ。
また勇気を出してやればいいんだから」
と私を逆に慰めてくれました。
このように子どもは何かをやってできないとき、
苛立ちをストレートに爆発させることがありますが、
その際、親が優秀な手本になるのではなく、
逆にできないダメな状態を見せてもいいのです。
by. 桜井章一氏
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親は、そんなとき、
子どもをいさめるのでなく、
そうやって微妙な形でズラすことをやってあげるといいのです。
このように報酬が得られるからという形で覚える我慢は、
子どもの人間形成をはかっていく上でどこかいびつな影響を与えることになります。
我慢は苦しいものだと思われていますが、
私にとっては我慢も楽しいことのひとつです。
我慢と喜びは私の中で分離できないものなのです。
でも、その我慢(呼吸を止める)は海中で生き物たちと出会う喜びや、
また自分の限界を超えていく喜びもセットとなっているわけです。
我慢だけを強調し、
忍耐を教えると、
人は「耐えられなかったらどうしよう」とか
「それに見合うものが得られなかったら~」
という恐れを抱きます。
我慢と楽しみを分けず、
我慢も遊びや楽しみの中に生まれてくる自然なものという感覚を子どもには教えていくといいと思います。
by. 桜井章一氏
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