■桜井章一の「ぶれない生き方」 -PHP研究所-
別々に分けて考えることのできないもの。二つで一つ。それが自然界の摂理です。どんなものにも「捨てどころ」があるのです
得たものや、手中にあるものを失いたくないという気持ちは、
損得勘定です。
人はいつの頃からか、
得ることばかりに心をとらわれ、
失うことに対して過敏な恐れを示すようになってしまいました。
この世に生を、命を得ても、
いつかは失います。
人生、得ることだけではありません。
by. 桜井章一氏
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得ることと失うこととは抱き合わせになっているのです。
別々に分けて考えることのできないもの。
二つで一つ。
それが自然界の摂理です。
生命というものは、
生産と破壊の中で生きているのです。
by. 桜井章一氏
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「先々に、これこれの物が得られるから、いま努力しないさい、頑張りなさい」
と、子どもたちは得ることだけを価値観として育てられているのです。
進歩だとか繁栄だとかの美しい理由づけがあり、
正当化されて、
教え込まれるのです。
そういうわけで、何ごとにつけ、
捨てることがとても怖くなっています。
しかしご承知のように、
人間一番強いのは、
捨て身のときです。
by. 桜井章一氏
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どんなものにも「捨てどころ」
があるのです。
心が捨てる気持ちになったとき、
失うものは何もないという状態になったときに、
人は恐怖心を克服でき、
無心になれる。
どれだけ捨てられるかというとき、
そこに愛情も思いやりも入ってきます。
捨てたくないと思っている者に、
思いやりなどあるわけがありません。
by. 桜井章一氏
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人は、愛情だとか、
何かを得たいがために、
相手にやさしくしたり、
思いやりを発揮しているのです。
捨てる力、捨てる勇気がすっかり身についてくると、
得たものの中からふるいにかけて、
いらないものを捨てられるようになります。
得たものを背負って生きている。
いいものも悪いものも一緒です。
劣等感すらも捨てられないで、
残している。
by. 桜井章一氏
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過去の恨み、つらみにしても、
捨てたふり、忘れたふりではなく、
本当に捨てることです。
人間、得ることももちろん必要ですが、
一方で捨てることができて、
はじめてバランスがとれるのです。
得ることで自信をつけて……
などと世間では言いますが、
そんなことでは自信なんてつきません。
自信がついたふりはできるでしょうが、
弱い部分をただ隠しているにすぎないのです。
by. 桜井章一氏
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弱いところを本当に捨てていないから、
いざというときに弱い部分が丸出しになってしまう。
いまはとても必要なものでも、
一度使えばいらなくなるものというのがあります。
今必要なものであっても、
捨てる勇気を持たなくてはならない場合があります。
生命同様、得たものはいつかは失うという心得を胸に、
つねに勇気を失わないで恐れを克服し、
戦い抜かなければならないのです。
by. 桜井章一氏
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目先の利に振りまわされないで、
信念、思い入れの強さというものをしっかり持っていれば、
ここぞというときに信じられない力を発揮できます。
「おばあちゃん、僕が替えてあげるよ」
そう言って、財布から一万円札を取り出そうとしました。
ものはついでに、
「ところでおばあちゃん、一万円札何に使うの」
と聞いてみると、「孫のご祝儀でね」と言う。
くちゃくちゃのお札です。
by. 桜井章一氏
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そのおばあちゃんが、
どういう生活をされているのかまではわかりませんが、
たぶん千円札を一生懸命に貯めてこられたのでしょう。
「それだったらおばあちゃん、一番きれいなお札を探さなくちゃね」
できるだけきれいなお札を財布の中から探し出して渡し、
私はその場を離れました。
おばあちゃんのくちゃくちゃの千円札の意味の大きさを感じとったことで、
私はとても気持ちが温かくなっていました。
人に親切にしたからではないのです。
by. 桜井章一氏
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その気持ちのよさを抱えたまま、
牌の音へ行き、雀卓を囲みました。
そうすると、役満をツモってしまった、
いつもは意識的に和了らないのですが、
(これは、おばあちゃんの感謝の気持ちなんだな)
そう思って、和了らせていただきました。
自分の心を澄ませてさえいれば、
ふだんは見えないものや聞こえない音が見えてくるし、
聞こえてきます。
by. 桜井章一氏
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心を澄ますことで、いい手がくる。
気持ちのいい麻雀が打てる。
また、そういうおばあちゃんがいることを見逃さず、
忙しいからといってやりすごしたり、
「クソババァ、何やってるんだ」
などというのではなく、
見落とさない目というものも大切です。
両替してあげたということだけではなしに、
千円札の意味というものを感じとることが、
見えないものを見るということにつながっていくのです。
別れ際におばあちゃんは振り向いておじぎをしてくれましたが、
その感謝の気持ちというものが、
役満になって私に返ってきたのだと思います。
by. 桜井章一氏
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私と私以外の麻雀打ちとの違いは、
心だけです。
もちろん、ものの見方もテクニックも違いますが、
最終的には心の問題です。
心が違うから、
麻雀も違ってくるのです。
しかし、麻雀に荒れ場とか小場とか親場といった局面がありますが、
それと似た雰囲気があったのです。
by. 桜井章一氏
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「あれ、これは大きくくるな」とか、
「あれ、これは真ん中くらいかな」
といった観念が、
スーッと湧いてきました。
大きくというのは、
荒れ場ということです。
「これは小場だな」と思ったら人気の馬を。
「これは荒れ場だな」と思ったら穴馬を買えばいい。
その日は、荒れ場、
小場の波みたいなものを感じたので、
その通りに自然に馬券を買ったら、
全部当たりました。
by. 桜井章一氏
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しかし、競艇場に行ったときも、
レースごとに、荒れ場とか小場といった雰囲気が感じられました。
そして、その通りに買っていたら、
自然に当たったのです。
置いてあったカードを見て、ふと、
「一番上にあるカードは、スペードの6じゃないかな」
という気になったのです。
自分のほうで、目には見えないのですが、
こうかもしれないな、
と思ったことが当たっているのです。
by. 桜井章一氏
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